第18話


 自宅から京都市内の大学まで一時間三〇分かかった。時間がかかろうとも、少年はこの場所に来て合否を確かめたかった。

 京阪電鉄の終着駅で降りると、少し歩いた。合格発表の日に、自分の受験番号を見つけた少年は、喜びで体中が粉砕されてへたり込みそうになった。受験勉強のために、時間を犠牲にして骨抜きにされていた自分にようやく生気が蘇る想いがしていた。

 掲示板で合格を確認した後、キャンパスを見渡した。アカデミックな雰囲気にデザインされた建物が、威容を誇って見えた。

 省吾と目が合うと、近づいてきた。

「お前は、どうだった?」

「理学部に合格していた」

「俺も、法学部に合格した。浪人中は猛勉強したので、甲斐があった。が、夢の続きはこれから始まる。また、お前と同級生になったな。今度はお前に負けない。雄大は、物理学者になるのが夢だと言っていたな」

「ああ、夢が現実に近づいたのを実感している」

「俺は国を動かしたい。だから、官僚になるつもりだ。いずれ、俺の政治力でお前の夢も実現してやる」

「随分、大きな希望を言うな」

「夢で終わらなければ良いけどな」

「政治の野望を抱くのは良いと思う。でもな……、弱い者の立場も、分かってやってほしい」

「俺はいつだって、弱者の立場を理解してきた」

 省吾の主張する優しさが、打算的なものに思えると同時に少年は失望した。

「福祉政策にだって精通して、善政を行うつもりだ」

「徳孤ならず、必ず隣あり――というから、本気で願っているのなら、省吾を応援する人も出てくるだろう」

 都会の森には、様々な魔物や試練が待ち構えている――と、少年は考えつつも、二人で話すうちに何故かそれが愉快に思えてきた。

「今度こそ、お前には負けない」と、省吾は自信ありげに告げた。

 今の段階で――人に負けない――とは、何を意味するのかと、少年は酷く違和感を覚えた。征矢や修二は、東京の有名大学に合格していた。しかし、彼らと競い合う考えはなく、淡々と自分の望む方向へ進めるように念じていた。

 時間的にも金銭的にも余裕ができたので、少年はエネルギー関連の専門書を精読するつもりだった。研究次第では、世界に大きく貢献できる――と想像すると、期待で頭の中の想念がはちきれそうになった。

 少年は、自分の境遇を呪わしく感じた経験があったが、独立独歩の歩みではなく、大勢の周りの人たちに支えられて、今の状況にたどりついたのを実感した。少年は、様々な経験をして難路や悪路を歩きつつも、目的地にたどり着いていた。しかし、科学者になる道はさらに険しいかもしれなかった。

 夕食後、勉強部屋で大学のパンフレットに目を通していると、庸蔵から電話が入った。沈んだ声で

「お前はどうだった?」といきなり尋ねてきた。

「合格していたよ」

「おめでとう。お前なら合格すると思っていたよ」

「君は?」

「俺は晴れて天下の素浪人だ。癪に障るけど、修二や征矢は東京の大学に合格した。美土里は俺と同じで落ちた――と聞いている。でも、美土里の目指すのは、俺の志望大学とは格が違う」

「電力会社を目指すのなら、もっと上の大学に進まないとダメだろ」

「正直、進路は変更しても良い。電力会社の件は、どっちでも良い気がする」

「弱気になるなよ」

「励ましてくれるのはお前ぐらいだ」

「僕には何もなかった。けど……、夢だけがあった。だからここまで来られた」

「夢か――いい言葉だ」

「理想を追うという意味だよ」

「妄想ではないのか?」

「それは君の得意とするところだろ?」

「倦怠は情欲に火をつける。いくら俺でも、そんなに女とは付き合えない。だから、常に勉強するか身体を動かしている。それに、二十歳になれば酒も飲めるだろ? それも、ある意味で夢だ。退屈こそが恐怖だ」庸蔵は嘯くと、不自然に大きな声で笑った。

「一馬力は七三五.五ワットだな」庸蔵は唐突に尋ねた。

「昔は、馬車が移動手段で、馬が動力だったからな」

「電気のない時代は、動物たちが使役されていた。そんな時代があった」

「何が言いたい?」

 脈絡のない応答ぶりに、庸蔵の内心が見え隠れしていた。

「何か、虚しくてなあ。これから勉強して、大学を出て馬車馬のように働くのなら、働き甲斐のあるところに勤めたい」

「君が望んでいる電力会社は産業の活力だから、やりがいを見つけられると思う」

「一馬力の力も出せない自分には、遠い夢だな。お前は夢に近づいたが……、俺は遠のいた」

「僕はむしろ、これからが大変だと思っている」

「殊勝な心掛けだな」

「どうかな。合格しても、気が抜けないという意味だよ」

「お前は、お前で頑張れよ。今日は愚痴を言って悪かったな」

 少年は庸蔵が悔しさに耐えているのが理解できた。合格に気をよくしていた少年は、庸蔵を元気づけたくなっていた。――俺には何もないけど夢だけがある。夢を失くしたら、俺には何も残らない――というのは、徳さんの口癖の受け売りだった。町工場にいるときは、気障な台詞に聞こえていたが、今ではしっくりと胸の中で共鳴し続けていた。

 少年は大学の入学式までに、庸蔵と発電所の見学に出かける計画を立てた。

「もう一度、電力会社に就職する夢を考え直したらどうだ? 一浪なら、就職に影響しないだろ?」

「うーん、どうかな」

「強いて言えば、発電所の何が見たい?」

 庸蔵は「批判の多い化石燃料の火力発電所と、クリーン・エネルギーのバイオマス発電所を見たい」と希望すると「両極を見ないと真ん中が分からない」と、奇妙な理屈を言葉にした。

「商業目的で世界初の発電所は、十九世紀にトーマス・エジソンがマンハッタンに建設した火力発電所だ。実は僕も一度、火力発電所の様子を見たかった」

「紀元前のギリシャの哲学者、ヘラクレイトスは――万物の根源は火である――といっている。存分に火の力を見せてもらいましょう」

 二人は、まず姫路市南部の播磨臨海工業地帯の中心に位置する姫路第二発電所に着くと、周囲を見学した。遠くから発電所が見えると、庸蔵はスマホで撮影し始めた。

「ゴジラに、ここを破壊されたら大変な惨事になるな」

「ここの発電所では、安全意識を徹底しているから、ゴジラだって寄り付けないよ」

 構内には入れなかったものの、下から見上げる火力発電所の液化天然ガスのタンクは、少年にはさながら巨大な城砦に見えた。

「でかいなあ。馬鹿でかいスケールだ」

「関西電力では、最大規模の火力発電所だからな」

「やっぱり、発電所に勤務するのは、やめとくわ。俺には敷居が高すぎる。猛勉強しないと無理だ」

「弱気になるな」

 姫路第二発電所の施設の周辺を歩きながら二人は話し続けた。

「次はバイオマス発電所だな」少年は、資金面や時間を意識しないで活動できるのを 今更ながら、不思議な感興を覚えていた。

 翌日、火力発電所は、中の様子を見学できなかったので、少年は朝来市のバイオマス発電所には、見学を申し込んでから二人で出向いた。

「木を燃やすのに、二酸化炭素の排出量を減らせるのか?」庸蔵は、忽ち疑問を口にした。

「調べて来なかったのか?」

「俺は、ジョン・ロックと同じで体験派だ。頭で思いこまず、まず体験してから十分に考える。そこが雄大とは違う」

「ジョン・ロックは経験主義者だ。君の言う通り、ロックは、感覚や知覚的経験を重視している」

「そうなのか? 俺は、ジョン・ロックを体験派の哲学者だと思っていた」

「体験派か? 面白い言い方だ」

「それで、どうしてだ?」

「何が?」

「二酸化炭素が減らせるのか――という点だよ」

「朝来バイオマス発電所は、ゼロ・カーボンではなくて、カーボン・ニュートラルを目指している」

「いまいち、ピンと来ない」庸蔵は周囲を見回すと、首を傾げた。

「体験派だろ? 中を見てから、判断しろよ」

 朝来バイオマス発電所は、森林資源の有効活用による木質バイオマス発電を事業化していた。木質資源を燃焼する方法で、タービンを回し発電すると、二酸化炭素の排出量の均衡が保てるのでクリーン・エネルギーとして期待されていた。説明では、二酸化炭素の吸収と排出により、二酸化炭素の排出量はプラス・マイナス・ゼロになるという。

 植林→保育→伐採→利用の林業生産サイクルは、資源循環型林業の――兵庫モデル――として注目されていた。

 所内は、他の発電所と同様に、複雑な配管がされた設備が目を引くが、敷地の端に大量の伐り出された木材が置かれているのが特徴的だった。

「謎が解けた」庸蔵は、嬉しそうに言った。

 発電所内を見学していると、木材の放つフィトンチッドの匂いが心地よく感じられた。

 大学でエネルギー問題の何を研究するか――少年は思案した。自然環境は、激変し続けている。じっくりと腰を据えて、本格的に研究し、今ある懸案事項を解決したいと考えていた。エネルギー問題だけではないが、環境汚染が指摘される――地球温暖化、気候変動、オゾン層の破壊、酸性雨、塩害――等々の解決は、物理学で扱うテーマでもあった。

 だが、環境の変化はすさまじく――待ったなし――の様相を呈していた。はたして自分の研究が間に合うのか、役立つ日が来るのかと、自分に問いかけた。少年には、すぐに答えが出なかった。

「俺が働くのなら、再生可能エネルギーを利用した発電所がいい。科学者の雄大先生、一つこの俺に、働きやすい発電所を紹介してくれないか?」

「そう、期待されても困る。それに、いつの日になるのかな」

「お早めに願います」

「どうかな? でも、社会人になってからも、友だちでいよう」

「俺は、お前よりもずっと気まぐれだ。約束はしかねる」

「えっ? どういう意味?」

「冗談だよ」

「それならいい。許すよ」

 庸蔵の境遇は、あらゆる面で少年よりも恵まれていた。それが、この数ヶ月で一転して、自分が優位になり――将来への迷い――を言葉にして悩んでいるのは少年ではなく、庸蔵の方だった。

「今度は、原子力発電所を見に行こう。原子力の有効活用には賛否両論があるだろ? それを見極めたい」

「庸蔵が大学に合格したら、ご褒美で……、どうだ?」

「お前が旅費や宿泊費を出してくれるのか?」

「いやそうはいかない。が、お祝いはするよ」

「プレッシャーだな」

 少年は資金面の豊かさが、心の豊かさにつながるのを実感した。今なら、ゆっくり布団で眠れた。自由とは――お金を自在に使えるのと同義語ではないか――と、少年は思った。今までの生活の不都合は、すべて貧しさから来ており、手かせ足かせとして、少年を縛り付けていた。

 時間は後ろから追いかけて自分を急き立てるものだ――と、長い間感じていた。今は、時間が向こうから流れてきて、後方にどんどん遠ざかっていくのを感じた。少年の歩む時間は、世界に拘束され自在に動かせなかった。それが、自分で自由に扱える時間に変化していた。

 生活に余裕ができても、少年は無駄遣いを嫌い、小銭入れに何枚の硬貨があるか、札入れの紙幣はどうかと確認する癖は抜けなかった。五百円玉貯金も継続していた。――習い性となる――というが、貧乏性が身についているのを実感した。

 庸蔵と話しているうちに、大学に合格したら祝ってやるから遊びに来い――と、徳さんに言われていたのを少年は思い出した。

       ※

 三学期が終了し、講堂で卒業式が催された。一年遅れで入学していたので、少年は――この日が本当に来るのか――と、漠然とした不安を感じていた。三年間の出来事が、数年の出来事のように思い出された。一人一人、生徒の氏名が呼ばれ、舞台に立ち卒業証書を手渡されると、少年は自分が今までとは違うステージにいるのを実感した。

 高校の卒業式で校長は「君たち若者には、夢を追い求める特権があります。この特権を生かせるか否かで将来の展開が変わってくるのです。夢の背中には、大きな翼が生えているといわれています。力いっぱいに翼を羽ばたかせると、どんな高い所へもたどり着けるでしょう。本校で学んだ諸君は、知性に誇りを持って、大きく翼を広げて飛び立って見てほしいのです。高い所から、夢の向こうにある美しい景色を見てください」と祝辞を述べた。

 少年は隣の席の庸蔵に「ほら、言ったとおりだろ。理想は追い求めないと実現できない」と囁いた。

「校長はお前に似ているよ。現実のけだるさを知らない。悪質さを知らない。科学者様になると、物事を構えて見るものかね」

「論点が違う。校長の話は正しいよ」

「はいはい、お説教はたくさんでございます。俺は何者にも拘束されない自由人でいたい。平凡な家庭を築き、日々を心豊かに暮らす」

「それも、いいかも……。我が道を行く――というのは僕よりも、君のためにある言葉だ」

       ※

 卒業式の翌日、町工場に行くとすぐに徳さんは少年の姿を見つけて近づいて来た。家を手ぶらで出ていたので、自販機で缶コーヒーを二つ購入した。ホット缶は手のひらを熱していたので、何度も持ち直しながら歩いた。

 広々として見えていた構内は、勤めていた頃より、小さく感じられた。小柄だった少年の背丈は伸びて一七五センチになり、肩幅も大きくなっていた。歩きながら、少年は、最近まで缶コーヒー一つが貴重品に思えていたのが不思議に感じられた。

 事務室や作業場の外側のトタン板が明るい色の物になり、雰囲気が違って見えていた。構内の土の地面を踏みしめて休憩室に入ると、徳さんがいて、連続テレビ・ドラマを見ていた。

「大学に合格したのか? おめでとう。よかったなあ」と徳さんは、窓から青い空を見上げた。「それは、俺が叶えられなかった夢だ。お前が偉い先生になったら、毎晩祝杯をあげよう」偽りのかけらもない表情で、徳さんは嬉しそうに笑っていた。

「徳さんに貰った……、このお守りのお陰かもしれません」

 少年は、ポケットからクロム銅の部品を取り出した。徳さんの覗き込む顔が歪に映し出されていた。

「どうだ? 霊験あらたかだっただろう」

「これって、本当に効果があるのですね」

「信じる者は救われる――というやつだな。お守りに効果はない。霊験どうとか……いうのは、信じる側の胸の内にあると思う」

 徳さんは来春結婚し、同じ年の夏には町工場を辞めて独立する――と告げた。工場経営者には、辞めないように何度も慰留されているとの話だった。

「俺には、両親が揃っていた。今も……だ。それ以外は、あらゆる面で雄大の方が恵まれている。女の子にだって、お前の方がモテる」

 少年が明日香との出来事を伝えると、徳さんは

「すまなかったな」と呟いた。

 風が心地よく吹いていた。笠取山では、今も大きな風車が回転し続けているだろう――と、少年はぼんやりと思い浮かべていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

都会の森 美池蘭十郎 @intel0120977121

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画