第17話


 家は祖父母の代に建てられたもので七十坪の敷地には、花壇や池も配置されていた。母親は、この家を守るために汗水流して働き、高い固定資産税を毎年、払い続けていた。老朽化した家屋の修繕にも大金がかかっていた。

 都会では、暮らし向きに似合わない大きな居宅に住み続ける者がいるかと思えば、父祖伝来の屋敷を守り切れないで売却し、知らぬ間に家主が別人になったり、解体された後で新しい施設が建設されたりするケースも珍しくはなかった。

大きな家に似つかわしくない貧しい暮らしとの不釣り合いは、家を手放す方向によってしか解消されなかった。

 母親は悔やみ、少年や凛咲は住み慣れた我が家を離れるのに抵抗を示したものの、家族で相談した結論は――家を売却して他所に住む――方向に決まった。家計面で追いつめられた結果の判断だった。

 業者の二人は、庭や家の中を見回すと居間で立ち止まった。年かさの男が、母親に身体を向けると「正直言って、家屋には値段がつきません。むしろ、解体費用などの負担がかかる。しかし、駅から近くて、日当たりのよい立地条件を考えると、期待が持てるでしょう」と、自信ありげに答えた。

 不動産業者の評価では、老朽化した建物に価値はなく、土地価格は坪当たり単価八十万円と算出された。

「評価は高いものになりますが、買い手がつくかどうかがポイントになります。心当たりがあるので、働きかけてみます。それと、建物の解体費用や仲介手数料などの経費がかかるので、蒲原さんの手元には五千万円が残ります」

「そんなに……」少年には、母親が金額の大きさに驚きの声を上げたのが理解できた。喜びのあまり頬がゆるみ、だらしない表情をしているかに見えた。

「あくまでも、買い手次第です」

「買い手が見つかりそうでしょうか?」

「まだ、どうとも言えません。が、私の勘では、この場所なら早く見つかりそうな気がします」と、年かさの男はほほ笑むと「何か、他に気になる点はありますか」と尋ねた。

 若い方の男は、家の中をうろうろしたり、窓の外を眺めたりしていたが時折、手帳に何か書き込んでいた。

「引っ越し先の件ですが……」

「移転先、分譲、賃貸、価格、賃料などの条件面をお聞きできれば、適当な先を探しておきましょう」

 年輩の男は、ベテランらしさを感じさせる慣れた口調で話し続けた。

 母親は、少年にノートとペンを用意させると、せわしなくメモを取り始めた。

「三宮の周辺ですと、賃貸物件は数多くあります。戸建てにするか、賃貸マンションやアパートなどの集合住宅が良いのか。面積や間取りも決めていただく必要があります」

「具体的な方針は、なにも決めていません」

 資金的に余裕ができるのは、少年には有難かった。反面、思い出の場所と決別する辛さを感じてもいた。亡くなった父親やチャッピーとの思い出は、すべてこの家で育まれていた。

 家は買い手がつくと、すぐに契約が成立した。購入者の工務店経営者は「七十坪の土地に三階建てを三軒建てて分譲する予定です」と明かした。

 母親は、少年と凛咲に促して墓参りに出かけた。霊園に着くと、母親に促された少年は水場で両手を清め、手桶に水を汲んで墓へ向かった。墓に一礼した後、雑草を抜き取り、箒と塵取りを使って周りを清掃した。

 除草剤を散布しても、しばらくすると深く根を張る雑草のたくましさが腹立たしい反面、愉快に感じられた。

 墓石を湿った布で拭きながら、少年は時折、顔を上げて周りの様子を見た。見慣れた光景でありながら、いつもよりも懐かしく思った。

「お父さんも喜んでくれると思う」

「私は、家族が楽しく過ごせるところへ引っ越しできますようにと、お父さんにお願いしようと思う」

「お願いの前に、まずは感謝しないと……」

 周囲の掃除が終わると、少年は数珠を手にして墓石の前に立った。

 凛咲が花を供えると、母親が線香に火をつけ、細い煙がゆらゆらと立ち上った。

 少年は、先祖の墓に向かい、父親とチャッピーに心の声で話しかけた。――家は無くなっても、思い出は消えない――と、過去を想起した。さらに、明日香の霊魂に話しかけるつもりで――僕は君の夢を背負って生きるから応援してほしい――と、念じていた。

「三宮の周辺で手ごろなアパートが見つからないかな」

「不動産会社の担当の人に言ってみるわ」凛咲の意見に、母親が応じた。

「アパートが決まったら三人で内覧に行こう」

「仕事や学校があるし、先方と都合がつくかしら?」

「都合はつければいい。僕はアルバイトを休む」

「アルバイトは辞めていい」

 不動産会社が提案した移転先のアパートは、候補が五軒もあった。それぞれ一長一短があったので、家族三人の意見は分かれた。

「若いあなたたち二人で決めなさい」母親は、自分から意見を主張するのを控え、最後には兄妹二人に決めさせてくれた。

 二人で相談した結果、引っ越し先は三LDKで二十坪のアパートに決まった。新居が決まると、住み慣れた家の引き渡し日も確定した。

 五千万円もの大金が入るのが決まると、母親は「あなたは心配しないで勉強して、立派な人になりなさい。凛咲の将来もあるから、贅沢はできないけど、アルバイトを辞めてもいいよ」と、少年に伝えた。声には、これまでにない自信が漲っていた。

 今まで通り、少年と凛咲には勉強部屋があてがわれた。

 新居は、元の家に比べて狭くなったものの、老朽化してみすぼらしくなった木造家屋に比較して洗練されていて、住み心地は悪くなかった。引っ越しのときには、大量の家具調度品や衣類を廃棄して、身軽になっていた。

 アパートの近くには、大きな公園や図書館があり、コンビニも徒歩で五分の場所にあった。何かを捨てて得られるものがあるとしても、大きな喪失感は拭えなかったが、それと引き換えに希望が胸に戻りつつあるのを強く感じた。

 親類たちは母親に対して「初めから家を売れば苦労しなくて良かったのに……」とか、「子どもに苦労をかけてまで、守るほど価値のある家だったの。もっと早く売るべきだった」とか「不景気なのに、家を売るのはタイミングが良いとは言えない。不動産の価格動向はちゃんと調べたの?」と、差し出がましく忠告した。

 少年は――家、花壇、クルマ、思い出――家族で築き上げたすべてのものを捨てて、やっと自由が手に入ったかに思えた。家族にとっての家は、お金の問題でありながら、反面でお金の問題ではなかった。それゆえ、少年は母親を責める気はなく、むしろふっきれたような気分になっていた。

 最大の喪失感は、明日香の不存在だったが、徐々に元気が回復していた。明日香が死ぬまでは――誰かの分まで生きる――という月並みな言葉はピンと来ない気がしていた。しかし、今は明日香の霊魂と二人三脚の歩みで、上を目指せると信じた。死は永訣ではないと思いたかった。

 貧しい暮らしをしながらも、少年は働く構えで必要なものを必要なだけ買い求めてきた。電車の切符一枚買った時も、財布の中の小銭の数を数えていたのが、今では遠い過去の記憶に思えていた。少年には自信があった。いつまでも思い悩むのが、明日香に対する不敬の罪に問われそうな気分も芽生えていた。

 希望を見出した少年は、胸の内で不可思議な力が躍動するのを感じた。机に向かい、目標を意識するたびに、力は動き出した。目が回るような毎日に落ち着きがもたらせると、身体に力が漲り――覇気――という新しい感情の領域が開かれた。

 寝る間を惜しんで勉強した結果、大学の受験では十分な手ごたえを感じた。少年は、力戦奮闘した後は、運を天に任せたい気持ちになっていた。

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