第16話


 心の空隙を埋めるため、少年は勉強の合間に『大乗仏典』や『聖書』を貪るように読んだ。

 ある日『聖書』を開いているときに『旧約聖書』の『出エジプト記』の記述に目が釘付けになった。少年は『出エジプト記』のモーセの起こした奇跡として記される十の災いが、環境問題に酷似していたのに震えていた。

 十の災いは、一.ナイル川の水を血に変える。二.エジプトの地を埋め尽くす量の蛙を放つ。三.ブヨを大量発生させ人や家畜を襲わせる。四.アブの大群にエジプト人を襲わせる。五.疫病を発生させ家畜を死なせる。六.エジプト人や家畜に腫れ物を生じさせる。七.激しい雹を降らせ畑の作物を枯らせる。八.イナゴを大量発生させエジプト全土を覆いつくす。九.エジプト全土を十日間暗闇で覆う。十.エジプト人の長子を皆殺しにする。

 これらの災いは、ヘブライ人をエジプトから救うために、モーセが起こした奇跡とされているが、少年には現代人への警鐘に思えた。少年が調べたところでは、モーセの奇跡の多くは、火山噴火によって発生する現象に近似していた。

 各種の聖典を読み、現実に向き合おうとしたものの、胸の痛みはすぐには癒えなかった。癒しの奇跡があるのなら、若くて純粋な明日香が天に召される動静が何故ありえたのか――という、不可解な現実に戸惑うより他はなかった。

 明日香がいなかったら、受験は受験の意味しか持たず、青春は青春の意味を持たなかったのではないか。少年は自分を再び、恍惚とした魅惑の時間に戻したくなっていた。

 人間は試行錯誤を重ねて前へと進もうと喘ぐものの、物理法則や、自然現象や世界の仕組みに規定されて、思うように進路を歩めない弱い存在だ――と考えると、少年は自分の非力さを恨めしく感じた。そのことは、心にひっかかりつつも、容易に解き明かせない命題でもあった。

 少年が家で勉強机に向かっていると、浩平から電話が入った。

「雄大。お前を元気づけてやりたくなった。今から会えないか?」

「少しなら時間がとれる」

 公園に行くと、先に浩平が来ていた。

「思ったよりも元気に見える。泣きすぎて目を腫らしているかと思ったよ。中学の時に、殴られて泣いていただろ」

「いくらなんでも言いすぎだろ」

「お前の気持ちは痛いほど分かる。でも、いつまでも悩むと陰気になる。それが原因で、お前の人生がフイになるのは馬鹿げている」

「何だって?」

「陰気すぎる」

「僕が陰気な男なら、君はただの優しさのない馬鹿だ」

「お前こそ間抜けだ。時間を無駄にしている場合じゃない」

「君に指図される謂れはない」

「お前は目先しか考えていない。そこが俺と違う」

「それなら、君とは絶交だ。もともと、目標にしているものが違う」

「そう怒るな」

「君が喧嘩をしかけてきた。怒るのは当然だ」

「俺はお前が陰気だと言っただけだ」

「それが気に障る」

「でもな……」しんみりとした声で浩平は尋ねた。「今の雄大を明日香ちゃんはどう思うかな?」

 少年の気持ちは荒れていた。忠告ではなく理解を求めていたのに、浩平から非難されたのに憤りを感じていた。本心では、浩平を力づけたかった。自分も慰めてほしかった。もう一度、今日会ったところからやりなおしたくなっていた。

 夜になり、いつになく取り乱し、口論をしたのを後悔した。浩平に電話すると「絶交は取り消す。でも、しばらく考えさせてくれ」とだけ伝えた。

 少年は、圧し潰されて重傷を負ったゴミ虫の有様で手足をばたつかせて喘いでいた。どんな魅力的な女性が、淫らな姿で近づいたとしても、心に巣くう虚無の穴を塞ぐだけの力はなさそうに思えていた。

 浩平は、心境を理解したうえで諭したかったのではないか――と気づきつつも、感謝の気持ちを告げる意欲にはつながらなかった。

       ※

 自室に引きこもり、少年が考え事をしていると、思いがけない人物が訪ねてきた。明日香の兄の智嗣が、母親を通じて面会を求めていた。ピシッとした上等のスーツに身を包み、柔和な笑みを浮かべて話すのを見ていて、少年は智嗣に明日香と同じ美質を感じていた。

 明日香の話では、兄は一流商社勤務の会社員だった。智嗣は少年を気遣い、労わるように敬語で話し続けた。

 智嗣はカバンから数冊の大学ノートを取り出すと、少年に手渡した。ノートには日付が記され、端正な文字で一日一日の出来事が書かれていた。

「明日香のノートです。これをあなたに差し上げたい」

「こんなに、大切なものを僕がいただいても良いのですか?」

「私たち家族に、あなたのことをよく話してくれていました。ですが、このノートを見るまでは、あなたが、あの子にどんな接し方をしていたのか、あの子がどんな思いを抱いていたのか、分かりませんでした」

 少年は細かい文字で書かれた明日香の日記帳を大事そうに手に取ると、まるで年頃の女の子がするように胸に押し当てた。

「私も読みましたが、どのノートにもあなたとの思い出ばかりが描かれている。あなたと一緒にいて、明日香は楽しかったと思います。葬儀の時に、棺に入れて一緒に燃やそうとも考えましたが……。あなたに、お渡しするのが、妹の一番の供養になると思いました」

 日記帳には、少年との楽しい思い出の数々が記され、明日香の心の揺れが繊細な文章で綴られていた。

「妹は、あなたと一緒にいるのが励みになっていたのです。病院に入院してから、あなたが勉強やアルバイトより何より、あの子を一番に考えてくれていたのが伝わってきました。私も、ノートを読んで感動しました」

 少年は智嗣に指定されたノートのページをめくってみた。一冊、一冊の分厚いノートの手触りと質感が生前の明日香の持つ、優しさに似ているかに思えた。ノートをパラパラとめくり、目についた文字を読むと自分への思いや葛藤が綴られていた。

 明日香は死を予感すると、日記の最後に――雄大君には、私の分まで頑張ってほしい。夢を実現し、立派な科学者さんになって、大勢の人々を救ってほしい。私が死んでも、落胆せずに、優しくてきれいな奥さんと結婚し、幸せな家庭を築いてほしい。雄大君の赤ちゃんって可愛いだろうな。私が、もし大人になるまで生きられたら、雄大君の奥さんになって、彼を精一杯、励まし力になってあげられたのに……。それだけが悔しい――と、綴っていた。

 少年は読み終えた途端、涙があふれ出るのを感じた。生きているうちに、明日香の想いを全部受け止められなかったのを悔やんだ。明日香の死に絶望し、人生の目標を失いかけていた自分を彼女は死んでも勇気づけてくれている――少年は、そう思うと、自分が心底、情けなくなった。

 目を閉じて瞼の裏に浮かぶ明日香は、頬に赤みが差した健康的で明るい姿をしていた。日記のページを開くと、若くて瑞々しい桃の果肉のような明日香とは、異質な本質が読み取れた。

 強がりを言っている時も、明日香は死の影に怯えて震えていた。日記には裸の心で自分と向き合う、はかなくも美しい姿が映し出されていた。胸に甘酸っぱいものが蘇ると、微かだが心地よい痛みとなっていた。

 日記帳を受け取ると、すぐに智嗣の存在を忘れて目につくところを無心に読みふけっていた。どのページも丁寧な文字で記されていた。

「今日は、ノートをあなたに渡したくて来ました」

 智嗣は、母親が出したお茶を半分ほど飲むと腰を上げた。

 少年は智嗣に礼も告げず、夢中になって日記のページをめくっていたのを恥じた。 智嗣は明日香によく似た優しい目をしていた。

「私たち家族が長い間、あなたを誤解していたのをどうか許してください」

 少年は、智嗣が帰るとすぐに仏壇にノートを重ね置き、リン棒を手に取り、チン、チンとお鈴を鳴らし両手を合わせた。窓を開けていないのに、頬を風が撫でたような錯覚を覚えた。ひんやりとした感触が残った。

 浩平に貰ったフィギュアの横に、生前の明日香の写真を並べ、日記帳は勉強机の上に重ねて置いた。少年には、神聖な祭壇であり、宝でもあった。時折、祭壇に手を合わせて祈ったが、常に明日香への感謝の念を捧げ、冥土の至福を念じていた。到底、物乞いの願掛けをする気にはなれなかった。

 夜になると、再び明日香の日記帳を開いた。徹夜で何冊も読みふけった。大半は、当日にあった出来事や心の中の葛藤、家族との楽しいひとときが記されていた。中学時代の日記では、少年との出来事を書いたページは少なかったが、徐々に増え、亡くなる直前のものは少年の思い出ばかりが綴られていた。

 家族が何故、大切な日記を手放し、自分に渡したのかが読み進むうちに理解できた。

 明日香の日記は、若者に特有の心の揺れや、女性心理の微妙な綾が綴られていて、並みの哲学書よりも哲学的に思えた。決してきれいごとばかりが並べられていたのではなかった。

 時に詩的に諧調で、時に破滅的に乱調に綴られていたが、そこにあるのは明日香の純粋な心の音色だけだった。

 美しい――と少年は思った。日記に書かれた内容は、偽りのない本物の美しさだった。

 日記に、まったく何も書いていない日はなかった。明日香には、何も書かない日は一日を生きていなかったのと同じになるのではないか――とも思えた。多感な彼女は、庭の草花を見ても、往来で首輪に繋がれた犬を見かけても、何かを見出だして、自然な文章で思いを綴っていた。

 知性の高さや感受性の強さは、文章に情感として表れていた。明日香は日記で食べ物の好みや好きな小説、詩、音楽、絵の趣味にも触れていた。少年には、すでに知っている内容もあったが、繊細な文章が流麗な旋律にも感じられた。

 明日香の死を機に、少年は自分を見つめなおしたくなり、受験勉強の時間を大幅に削って、哲学書、宗教書、人生論、臨死体験記などの本を読んでいた。日記を読み進むうちに、少年への明日香の思いが分かり、勇気づけられた。――雄大君――と書かれたページは、情感が胸に迫る特別なページだった。

 日記を読む行為によって、悲壮感がもたらす現状逃避的な孤塁から脱出し、陽光輝く場所に出向き始めていた。

 失望が闇夜だとすると、いつか日の光が輝く朝の時間が訪れそうな気がしていた。少年は自分の人生が、一寸先の読めない暗中模索の毎日なら、明日香の人生は明々白々とした見通しの効く輝かしい毎日だったのではないか――と考えていた。

       ※

 少年は高校三年生に進級し、大学受験に向けてかつてないほどに猛勉強した。一方で、アルバイトをやめたため家計が苦しくなり始め、大学進学に暗雲が立ち込めていた。自宅にいるときは、昼食をカップ・ラーメンにする日も増えた。しかしながら、夕食時には、母親は決して育ち盛りの子どものために予算を削らなかった。家族に応援されて、少年は前に進む決意で臨んだ。

       ※

 音楽の時間、箕島は少年に近づくと「明日香ちゃんの分まで頑張ろうね。私に彼女の代わりは務まらないけど……。何かあったら、相談してね」と、耳元に口を近づけて囁いた。

 明日香の分まで頑張るのが、はたして供養になるのか判然としなかったものの、少年は上を目指すしか手立てが見つからなかった。進学の費用負担が重くのしかかり、家族を犠牲にするのは避けなければならない。だが、少年には有効妥当な手段はなかった。

 箕島の態度に反応し、生徒たちが動きだした。彼らは、誰一人として、生命の輝きや死の深淵について、何一つ考えたためしがなく、理解していなかった。

教室内は女子生徒の非難の声と、一部の男子生徒の悪ふざけで騒然となった。

 生徒の一人が指笛を吹き鳴らすと「妬けるねえ。お二人さん」と、大きな声で茶化した。教室が騒がしくなり、罵声が続くと箕島の目は鋭く光り、「静かにしなさい」と、大声で叱った。

「おお怖い、怖い。ヒステリックな教師に雷を落とされたら、敵わない」

 数人の男子生徒は箕島を軽んじていた。彼らは副教科の授業の時にだけ悪ふざけをし、担任の前では別人のように優等生を演じていた。

「授業を始めます。音楽では話し声は邪魔になります。雑音ではなく、美しい音を心で楽しんでください」箕島は生徒の様子を見ながら、グランド・ピアノに座った。

 曲を弾き箕島が歌を歌うと、ざわついていた教室の生徒たちもおとなしくなり、ピアノの奏でる音と清らかな声に耳を傾けていた。

 箕島は、今までで最も美しく魅力的な女性に見えていた。それは風貌から来るものではなく、内面の優しさから滲み出るムードだった。大半のクラスメイトは、箕島の 美貌に憧れ嫉妬していたが、彼女の内面の輝きに気付いてもいなかった。

 少年は箕島の悲しげな表情を見るたびに、明日香の内にもあった美しい心の琴線を感じた。

 箕島は、誰よりも善良さが表面に出ていた。少年は箕島という音楽教師が、実は明日香よりも幼い精神の持ち主で、自分をどう表現すれば良いのか、判断しかねているのではないか――と、推察した。

 教師の箕島と恋愛関係になるのは、想像もできなかったが、彼女の存在が大きな慰めになっていた。箕島の不器用な正義感や思いやりが、他の誰よりも少年には理解できると信じていた。

 少年に迷いはなかった。受験当日までに合格水準に達するために、学習計画を三日かけて作成した。効率よく記憶し、高得点を出すために考えられるだけのアイディアを書き出した。さらに、次の一週間で学習効果を検証してみた。

 自分の立案した学習方法に確信が持てたので、勉強机に毎日五時間座り、反復学習を続けた。量より質が大事とも言えたが、学習内容の質と量の両方を充実させて臨むと、成績が向上し安定的に志望大学のA判定が出せる状況になった。

 倦怠感で圧し潰されそうな時は、明日香の遺影を見て鼓舞し、気分転換に明日香の家族から譲り受けた音楽CDを聴いた。

 貰ったCDには、ヒーリング・ミュージックに混じって、キング・コングの愛のテーマがあった。――愛のテーマ――を聴いていると、胸の奥から熱いものが込み上げてきた。

 少年は進学か、家族の生活を支えるかで再び葛藤した。自分が奨学金を受け取り進学しても、科学者になるには四年ではなく八年の歳月が必要だった。

 もし、何らかの理由で頓挫したら元も子もなかった。――自分の夢のために、妹まで犠牲にはできない――と考えると、いたたまれなくなった。そんな状況でも、少年は弛みなく机に向かい、勉強のために時間を費やした。

 大学受験を目前にして、母親は意を決したように「この家を売る」と告げた。

凛咲は母親の提案が理解できず、不満そうに声を荒げると、即座に「転校はしたくない」と反対した。

「僕も、勉強しながら働くから、家を売るのは考え直してほしい」

「家を売っても、遠くに引っ越しするつもりはないし家計は楽になる。今まで売る気になれなかったのは、あなたたちのためだった」

「私たちの思い出の詰まった場所なのに、他の誰かが住むなんて、考えられない」凛咲は口を尖らせた。

「仕方がないわね。もう少し考えてみる」

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