第15話


 少年が見舞いに行くと、明日香は「来てくれて嬉しい」と、いつもより大袈裟に喜んだ。見舞いのマドレーヌの入った箱を手渡すと、ベッドの脇に置き「お手洗いに行ってくる」と、パジャマ姿の明日香は素足にスリッパを履き、せかせかと病室を出て行った。

 明日香の素足の指が見えた時、豆粒にも似た一本一本の指先の丸みが何故か愛おしくなっていた。

 元気そうに振舞っていた。が、どこか不自然にも見えた。

 トイレから戻ってくると、再検査の結果、明日香の病気が白血病であるのが判明した――と、明かした。今度は心なしか悄然とした顔をしながら、明日香は

「白血病と告げられて怖くなったけど、現代医学は進歩しているから、抗がん剤で完治する人が増えているって……。昔のような不治の病ではないし、雄大君は心配しないでね」と、健気に打ち明けた。

 家族や親類の骨髄の適合性が調べられた結果、明日香の骨髄型とは適合しないのが分かった。骨髄提供者のうち明日香の型に適合するドナーが現れるのを待つ成り行きになった。

 病院に着くと、ちょうど院長先生の回診中で面会ができない時間だった。通路でしばらく待っていると、有麻が訪ねてきた。有麻は終始、悲しそうな目つきをして、少年が話しかけても生返事を繰り返した。

 病室に入ると、有麻は見舞い品の菓子箱を手渡し

「元気そうね」と声をかけた。それが、有麻の精一杯の演技なのは明白だった。

「お見舞いに、来てくれてありがとう」と、少年はぎこちなく笑った。

 明日香は、やせ衰えて見えた。

 二人を見ると、明日香は明るい表情をして

「すべての人が幸せを求めている しかし幸せというものは そうやすやすとやってくるものではない 時には不幸という帽子をかぶってやってくる だからみんな逃げてしまうが 実はそれが幸せの正体だったりするのだ」と、詩を暗唱した。

「聞いたことがある気がする。良い詩だね」と、有麻は相槌を打った。

「よく、覚えているね」

「坂村真民という詩人の『幸せの帽子』という詩なの。前から、好きな詩だったけど、今が一番、それを実感している」

 外見は衰弱して見えたため、少年には痛々しい感じがした。面容の明確でない不安が、病院のしじまの中にいて押し寄せると、耐えがたくなった。

 白血病は、かつてのような不治の病ではなく、治療方法も確立されていた。少年は、すぐにでも治療が有効に機能するように念じつつ、明日香の元気になった姿を何度も思い浮かべた。

 病院の白を基調とした色彩が、清潔さと静謐さをイメージさせながらも、寒々とした人を受け入れない空間に見えると、少年を身震いさせた。明日香の強い精神力なら、孤独と不安の時間を耐え抜き、見事なまでに復活するのを信じたかった。

 相部屋から一人部屋に移動すると、明日香は心細そうに

「毎日でも見舞いに来てほしい」と、少年に心情を吐露した。

 一人部屋は、外の日差しを見慣れた目には、薄暗く孤独な色合いに閉ざされていた。人に弱さを見せない明日香が随分と弱気に見えた。もしも、それが許されるのなら、ずっと付き添っていてやりたい心境になっていた。

「できるだけ、都合をつけて会いに来る」

 パジャマ姿の明日香は、ベッドの上で半身を起こすと「嬉しいわ」と、か細い声を出した。

「喜んでくれるのは、君ぐらいだ」

「雄大君は、たくさんの友だちに恵まれている」

「あいつらは、油断できない」少年は目の前の明日香を勇気づけたい一心で向き合った。

 しばらくすると、薄暗かった病室の窓から日差しが入り、光の破片がベッドの上にも舞い降りていた。明日香は立ち上がると、窓に近づき中庭の様子を見た

「あの大きな木を見ていると、六甲山に三人で行った日を思い出すの。あの頃は、楽しかったなあって……。ほら、頂上の近くにもあんな感じの大きな木があったでしょ?」

「だったかな? 登山のせいで、嫌な経験もしたけどね」

「思い出って、時間が経つと美しいものに変化しているのね」

 感傷的な言葉が弱気に思え、少年は胸が苦しくなった。

「良くなって、退院すれば楽しい経験がいっぱいできる。それまでの辛抱だと思う」 少年は、月並みな言葉しか思い浮かばない自分が、歯がゆくなっていた。

 明日香は目を細め、今までで最高の優しい笑顔を見せて「約束だよ。また、あの山に登ろうね」と、少年を見ながら手を振った。

――業病――という、言葉があるが、人は病気になる経験で過去の宿業が解消され、霊的に進歩を遂げるとされている。明日香の病気にも、同様の事理が内在しているのではないか――と想像しつつも、少年はうまく言葉で伝えられなかった。

 病室を出ると、空一面をどす黒い雲が覆っていた。風に湿り気を感じた。しばらくすると、雨が降り、時間と共に雨脚が強くなった。少年は、カバンから小さな折り畳み傘を取り出して頭の上に広げた。風に煽られて、雨が肩や膝を濡らした。少年の心模様と大雨は近似していて、身体だけでなく心の奥まで悲しみで濡らした。

 集中治療室に入る前に、明日香は少年に――一縷の望みに賭けてみる――と、言葉にしていたのを思い出した。――一縷の望み――とは、僅かな希望しか残されていないと、自覚していたのかと少年は案じた。

       ※

 自宅の勉強部屋にいて窓の外を眺めると、大学生と思える集団が歓談しながら家の前の道路を歩いていた。本来なら、春の陽光の中を彼らと同様に明日香もキャンパスを闊歩していた。生活習慣が原因とはいえない病気に罹るのは不条理にしか考えられなかった。

 何かが心の中で砕けた気がした。不吉な音を胸の内で感じながら、何も聞こえなかったように無視した。

 明日香は闘病生活に耐えて、希望を見出そうとしていた。病室の狭い空間で過ごしながらも、明るい日差しの中を歩くのを夢見ていたのを少年は知っていた。痛々しくも健気に見えると、胸が圧し潰されそうになった。そんなある日、少年の耳に明日香の訃報が届いた。

 これまでの人生で、もっとも残酷な言葉を耳にすると、少年は血の気が失せる思いがした。聞いた瞬間から、いずれ死ぬのなら、人は何のために生きるのか――という、単純素朴な問いが、何度も頭の中で鳴り続けていた。

 頭の奥深くから、真っ白な虚無感が広がって全体を支配すると、少年は考える気力を失った。在りし日の最後に会ったときの明日香のように、ベッドに仰向けになると、何もせずに少年は天井を見続けた。

 父親や飼い犬の死を経験した後も、少年にとって明日香は不死の存在のごとく思えていた。明るくて元気だったガール・フレンドが、衰弱し姿を消すのは、あまりにも不条理に思えていた。

 あすなろの木の伝説に、明日は檜のような立派な大木になろうとしてなれなかった木だ――という、ものがある。闘病生活を続け、元気になろうとしてなれず、進学の夢が叶わなかった明日香が、あすなろの伝説の虚しさを物語っていた。

 通夜に出向くと、箕島が手を合わせて明日香を見下ろし「自分の意見をちゃんと言える、しっかりとした素晴らしい女子生徒でした」と、両親に話しかけていた。月並みな言葉だったが、それが逆に箕島の純朴さを証明しているかに見えた。

 箕島より遅れて、明日香のクラス担任が訪れた。担任は「この度はご愁傷さまでした」とだけ告げて、箕島を鋭い目つきで見た。

 箕島は「私の父が同じ病気で亡くなっているの」と、少年に耳打ちした。少年は今までよりも、箕島に親しみを感じていた。「年頃の女の子だったのよ。人生を恨んで、周りにあたり散らす方が簡単でしょうに……。あの子は、そんな悪さをしなかった」と、か細い声を出すと辛そうな表情をした。

 寒い朝だった。空から粉雪が舞い降りていた。路面にはうっすらと雪が積もり、風が吹くと肌に痛みが生じた。

 葬儀は午前十時から会館で催される運びとなった。時間には余裕がありながらも、気がはやり少年は朝早く身支度を整えた。

 当日は、遺体が会館に移されていた。棺に入れられた白装束の明日香は、頬に紅を差されると、生前の可愛らしさを想起させた。だが、眠りの森の美女のように起き出す気配はなく、死の持つ圧倒的な力に生気を奪われているかに見えた。

 身体の温もりは、人間が食物摂取により体内で燃やす生理的熱量なのを少年は頭では理解していた。目の前の体温を失った個体は、明日香の外形を保ちながら、魂の抜けた容器ではないか――と、何度も自分の目を疑っていた。

 頬に口づけされた日の明日香の唇の柔らかい感触が頭に浮かぶと、場違いな記憶にもかかわらず鼓動が早くなった。天使のように美しく舞い降りた明日香が、天に召されるのが彼女の美質のせいであったら、仕方がなくも思えていた。

 少年にとって俗世間は、人の波をかき分けないと先へと進めない荒野だった。ある意味で、年老いる経験なく死地に赴く明日香が羨ましかった。心の清いものには、葬儀は聖別されるための戴冠の儀式であり、煌びやかな祝宴でもあった。日常の猥雑な空間を遙かに超えた聖なる場所へ、明日香の魂は煙に乗って上昇していくのか――と、少年は漠然と思い浮かべた。

 死が永訣なら明日香とは二度と会えず、それがもし常世の国への再誕を意味するのなら明日香と再会できるのは、少年が年老いて死んでからになる。死は闇のとばりのごとく、少年の前に正体を一度も現したためしがなかった。

 生の時間に対して、死の時間というものがあるのなら、長さと体験の質が見えないのは、容易に解き明かせない謎にも考えられた。

 明日香を失ったのが実感として胸に迫ると、少年は気力を失い、大学受験への取り組みなど、どうでも良くなった。チャッピーを飼っていた時、この犬がただ生きて呼吸しているだけで愛おしいと感じていたのを思い出した。動物の死とガール・フレンドの死を比較するのが、酷く不謹慎で罰当たりだと想起すると、背筋が寒くなった。

浩平は様子を案じたのか、何度も背中をさすってくれた。鋭い針でぐいぐいと突かれる胸の痛みが、手の平から伝わる温もりで少しだけましになった。

 明日香とは、愉楽を共に経験するだけでなく、孤独や苦悩を分かち合った。他の誰の死よりも、虚脱感が強く胸に迫っていた。

 少年は――絶望――という言葉を知っていたものの、本物の絶望を今のタイミングで経験するとは思っていなかった。幼少期の父の死、飼い犬の死に続いて、ガール・フレンドの死を経験し、大切な存在との永遠の決別を嘆いた。彼には、この世界が実態のない幻のごとく見え始めていた。

 翌日の葬儀会場には、明日香の親類や、教師やクラスメイトなどの大勢の弔問客が訪れていた。

 僧衣を纏った住職の読経の声が響く中で、少年は浩平や、省吾や有麻の近くの席に着いた。

「良い子だったなあ。あんな、可愛らしい、気持ちの優しい子が……」と、言いかけて浩平は、息が詰まったように喘いだ。「明日香ちゃんに、思いを寄せられていたお前が正直言って、羨ましかったよ」

「僕には、明日香ちゃんのいない世界が想像できない。喧嘩した日もあった。でも、彼女を憎んだ日は一度もなかった」少年は思いを口にすればするほど、安っぽく思えるのに驚くと、言葉を継ぎ足せなくなった。

「中学時代の明日香ちゃんは、私たち女子生徒の憧れだった。可愛くて、優しくて……」と、有麻は呟いた。「もう一度、会いたかった。会って、喧嘩したときのことを謝りたかった」

「彼女は、有麻ちゃんをとっくに許していると思う」

 少年には、心にぽっかりと空いた穴を明日香以外の存在が優しく満たしてくれるとは考えられなかった。死の持つ陰湿な空気感が圧倒的な力を示し、彼の心を支配していた。

 明日香の兄は、少年の姿を見つけると手招きした。一度しか会ったことがなく、明日香が入院するまでは、家族からは交際を反対されていたにもかかわらず、親類たちは少年を囲むと「火葬場までついて行ってあげてください」と懇願した。

 棺桶は重く感じられたが、中で眠る明日香は小さな少女のように思えた。こんな形で、彼女の身体を持ち上げる展開があろうとは、予見できなかった。

 遺体は火葬炉に入れられると、重油で七十分の時間をかけて焼かれた。少年は、明日香との思い出を頭に浮かべながら、みっともなく泣いて見せる構えが、彼女への敬意のような気がしていた。さらに、涙を流しながら、ふと火葬場で利用されるエネルギー量や、自然環境の影響を考えそうになる自分を憎んでいた。

 荼毘にふすというのは、残酷な営為に思えたが住職は数珠を手にして読経した後で

「お釈迦様がお亡くなりになった時、クシナガラの地で在家信者たちの手で火葬されています」と、目を伏せて話した。

 上昇気流が発生しているのか、火葬場の山の上空では、翼を大きく広げたトンビが円を描いて飛んでいた。空はどこまでも青く澄んでいた。

 マイクロバスで山を下りても、目の前の出来事が現実に起きているのが信じがたく思えていたが、それでいてすぐそばに明日香の精霊が見守っているような錯覚を覚えた。

 意識は冴えわたり、明日香の遺骨を生々しく感じながらも、死の暗闇の中で苦しんでいるのは自分なのではないか――という想念に囚われていた。明日香は視界から消え去り、不存在の空隙は少年の心の奥で広がっていた。

 自宅に戻っても、不意に寂莫とした空虚感に襲われた。自分の家族の実情を考えると、自死という選択肢がないことに喪失感と安堵感という、対立する二つの感情が芽生えていた。

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