第14話


 二人は週に一度の清掃ボランティアに参加し、ステンレスのトングを手に持ち、吸い殻を拾ったり、片手で空き缶やペット・ボトルを回収したりするのに時間を割いた。

 リーダーの指示に従いエリア・マップが配られると、役割とそれぞれの担当エリアが決められた。他人のために役立つ営為をしている――という自覚が気持ちに張りを与え、清掃行為を楽しいものにした。

 日本人は綺麗好きだと思われているが、街中を注意深く見ながら歩いていると、少年が思っていたより、落ちているごみが多く、マナー違反を平気でする通行人が存在するのが分かった。

「酷いな」リーダーはごみの多さに呆れながら「これでも、一昔前よりは日本人のマナーが良くなっている」とぼやいた。

 道路上で腰を屈めながら移動し、ごみを拾うのは慣れない人間には重労働となった。朝早くから、繁華街に出て清掃を始め、昼食休憩後は夕方まで街中を移動し、綺麗に磨き上げて行った。

 アスファルトの路面にへばりついたガムはヘラで削り取った。腰を屈める作業が多いので、立ち止まっては伸びをした。

「結構、身体に堪えるよね」

「息も絶え絶えという感じではないけど、腰がかなり痛い」

「ゆっくり、周りを見ながら長時間歩くのって、かなり疲れる」

「でも、どこか気持ちいい疲労感だね」

 清掃ボランティアをしている時も、常に二人並んで作業をしていたので「仲が良いのですね」と、何度も声をかけられた。少年には、それが照れよりも誇らしさを感じさせた。

 街中だけではなく、ビーチや、山の中などあらゆる所に出かけて二人は汗を流した。他人の役に立っている実感が、疲労を心地よく感じさせていた。

 勉強部屋で本を開いていないときは、目を閉ざすと少年はいつも同じ光景を見た。――青空の下で明日香と二人で歩いていると心地よい風が吹き、流麗な音楽が聞こえてくる。二人は同じ大学のキャンパスを楽しげに歩き鼻歌を口ずさむ。しかし、気が付くと隣にいた明日香は姿を消し、少年は一人で孤独な気持ちのまま立っていた。放っておくと同じ光景が繰り返された。

 居眠りしたときに同じ夢を見るのは――勉強疲れ――のせいだと少年は考えていた。

       ※

 少年は明日香の誕生日に卓上に置く、おしゃれな間接照明をプレゼントした。

 明日香は「楽しみね」と声を出すと、リボンを取り、カラフルな包装紙のテープをはがし、箱をゆっくりと開けた。彼女は、顔を見てほほ笑みながら、間接照明のオブジェを取り出して机の上に置いた。

 オブジェは、スイッチをオンにするとパッと明るく光り、青い海をイメージさせる球体の中に、二頭のイルカの泳ぐ姿が浮かび上がる趣向が施されていた。明日香は、プレゼントを手に取ると目を輝かせた。

「ありがとう。本当に嬉しいわ」

「どれにするか、迷ったけど、明日香ちゃん、オルゴールの方が良かったかな?」

「私も、こういうのが欲しかったのよ」

 明日香は喜びの声を出すと、頬に「チュッ」と音を立ててキスした。少年は鼓動が激しくなり、体中の血液が廻ったためなのか、幸福感で全身を熱く感じていた。頬に柔らかな感触が残り、桃の果肉の香りをイメージした。

「私、あなたが望んでいることをして、一緒にいてあげたい」

「ああ、君はすごく可愛い」

「雄大君と、楽しい時も、悲しい時も分かち合いたい」

「中学生のころから、僕は明日香ちゃんを……」

 少年は胸がいっぱいになり、言葉を継ぎ足せなくなった。唇はいつもより淫らに見え、白い歯や舌は艶めかしく濡れて見えた。うぶで純情な明日香の姿が大人の女に見えると、少年はどきどきした。

 少年は歓喜に震えていた。まっすぐな眼差しを受けて、明日香の前に跪き、彼女の肌に触れたい衝動に駆られていた。

「友だちから、恋人に……、僕らは、身体で確かめ合えるのかな」

「それは違うのよ」

「どういう意味?」

「私は、雄大君が好きだけど……」明日香は言いかけて、口を噤んだ。

 明日香は、悲しそうな表情をした。少年は、彼女のぱっくりと割れた生々しい心の傷口を痛めつけたのを感じた。感情は宙吊りにされると行き場を失い、言い知れぬ寂寥感が残った。

 大胆な行動と、しおらしい言葉とのギャップの間で、明日香の心の中ではどんな思いが揺れ動いているのかと思うと、戸惑うしかなかった。

 二人で個室にいるのが刺激になって、さらなる淫らな妄想につながるのを恐れ、少年は立ち上がると部屋の窓を開けて外の空気を入れた。防音サッシを開けると、道路上を通行するクルマの騒音が入って来た。

「学年も違うし、同じ机で勉強する必要があるのかしら?」

 明日香の語感に、悪意はこもっていなかったものの少年はギョッとした。急な心境の変化が、すぐには理解できなかった。一人の友人としての好意を恋愛感情によるもの――と、勘違いしていた自分を嘲笑したくなっていた。

「勉強は本来なら自習が基本だ」

 少年は、家族の留守中に明日香の家に上がる後ろめたさから逃れるのを望みつつも、彼女と一緒にいられる幸福感を味わいたくもあった。

 こういう時は、薄ぼんやりとした時間を過ごしたかったが、頭は冴えていた。年頃の他の少年に比べても、冴えすぎている――と、彼は思った。

 日々の努力が実り、成績も安定的に推移し進学への期待が持てる状況になっていた。

 二人は受験勉強の合間を縫って、ボランティア活動に勤しみ、本や映画や音楽の情報交換をした。

「私はクラシックやジャズよりも、映画音楽が好き」

 明日香の答えは、少年が想像していたものとはかなり違っていた。

「たとえば、どんな曲?」

「キング・コング」

「えっ? キング・コングは、怪獣映画だよ」

「一九七六年の古い映画なので、映画自体は見ていないけど、この映画の――愛のテーマ――がすごく好き。本当に気持ちが癒される素敵な曲なの」

「凄い、こだわりだね。僕も聞きたい」

「うちにあるから、今度聞かせてあげる」

「家では会わない約束だろ?」

「少しだけならいい」

 明日香の部屋の窓から外を見ると、ボーダー・コリーが飼い主に連れられて散歩していた。犬はリードをピンと張って、飼い主の女性を誘導するように歩いていた。

 少年は、チャッピーを思い出した。――チャッピーがあんな風にする場合は、早く公園に行って遊んで欲しい時だった――と想像した。

       ※

 休日は、二人でボランティア活動に精勤した。少年と明日香の心の距離は縮まり、肩を寄せ合って作業に従事した。

 作業の手を止めて二人で話し込んでいると、キング・コングに似た筋肉質でいかつい顔立ちのリーダーが傍に来た。

「どうだ? うまく進んでいるか?」

 少年が驚いて黙っていると、明日香は機転を利かせ

「こんなに一杯、集めました」と、傍らのごみ袋を持ち上げて示した。

「それならいい」リーダーは何度も振り返りながら他所へ行った。

 ボランティア活動は、二人には充実した時間だった。冬になると落ち葉が増え、清掃時に配られるごみ袋はすぐに一杯になった。作業が長時間に及ぶと、足腰に筋肉疲労を残したものの、それが形のない勲章のごとく思えていた。

 すべてが、順調に進み始めた。街は明るくて活気に満ちており、空から隕石が落ちて家を直撃しない限り、行く手を阻むものはなさそうに見えていた。大学進学後の学費も、働き続ければ捻出できそうに思えた。

 だが、人生の道筋を正確に予見できる者は存在しない。どんな運命の悪戯が人を災厄に導くか分からなかった。少年には、人生が見通しの効く晴れた昼間ではなく、暗い夜道をヘッドライトで照らしながら進んでいるかに感じられてもいた。

 自分に、決められた運命を修正する力があれば、明日香とも同学年になり、同じ時期に同じ悩みを分かち合えたのに――と、時折悔やむ日があった。

       ※

 少年は高校二年生に、明日香は高校三年生に進級していたので、大学受験を控えて、休日に会う機会が減少していた。明日香の両親に交際を気づかれてからは、猛反対され電話をするのもやりにくくなった。

 明日香は、中学時代の登山の一件を持ち出され――あんな男とまだ付き合っているのか――と、強い口調で咎められていた。

「風邪をこじらせたのかな。微熱があるし、倦怠感を感じるの。息切れがしたり、動悸が激しくなったり、眩暈を感じたりする日もある」と告げられると、明日香から連絡が来なくなった。清掃ボランティアの集合場所にも姿を現さなかった。

 登校時に教室に向かう通路で、偶然省吾に会ったので話しかけると「明日香ちゃん、風邪で一週間休んでいる。土日を挟んでいるから、十日近くになる。おかしくはないか?」と問いかけた。少年には、何か禍々しい出来事の予兆のごとく感じられた。

 中学時代に、シェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』を読んで、恋愛は学習に勝る経験ではないのか――と、思ったのが脳裏に浮かんだ。少年は思わず、本棚に手を伸ばし『ロミオとジュリエット』を開くと――あの窓からこぼれる光は何だろう? 向こうは東、とすればジュリエットは太陽だ――というロミオの台詞が目についた。

 志の高潔さは、勉強や仕事や芸術の内側にだけあるだけではなく、恋愛の内側にも存在しなければならないと考えると、今のタイミングで明日香のために何ができるか――と、想像した。

 エネルギーと環境問題について、少年は本を読み漁り、発電所を見学し想像を巡らせるのを習慣化していた。しかし、明日香と別れてから、読書や勉強よりも、もっと大事な今の時期にしておくべき何かがありそうな気がした。

 明日香のスマホに電話しても不通になり、固定電話にしても誰も出なかった。やっと、おばさんが出たと思うと「明日香は今、電話口に出られないのよ。ごめんなさいね」とだけ告げて切られた。

 接触できなくなったのが、彼女に嫌われたのが原因ではないだけに、やりきれない気分にさせられた。

 ボランティア活動を始めてからも、勉強を続けていたので、アルバイトの時間が減っていた。明日香が来なくなったので、ボランティア活動をやめた。

 少年は、暗がりの孤独から逃れ出る状況を欲していながらも、うまく脱出できずに、何度も孤独の洞窟に舞い戻っていた。彼は知識欲に飢えていた。世界のすべてを知り、明日香の秘密のすべてを知りたいと渇望しながらも、先へと進めずに足踏みを続けていた。性は愉楽の扉ではなく、神秘な扉であり、愛し合う営為によってこそ、恋愛の甘美な果実を味わい尽くせそうな気がしていた。

 生真面目な表情で明日香と話しながら、胸の内で卑猥なイメージを膨らませるのが背徳に思えると、葛藤に苦しんでいた。人を愛するのが、苦悩を伴う事実を自分の心中にありながら、不思議な感情で自分の心の動きを見つめていた。

 少年は、世界の広がりが迷路のごとく思えると恐ろしくなった。どんな魔物が行く手を遮り、獰悪な口を開き、鋭い牙で血肉を切り裂くか分からない恐怖でもあった。少年は一六歳になっていたが、自分や明日香の幼さが憎らしかった。

       ※

 三日後の夕方、電話すると明日香は

「体調が悪くて、風邪だと思っていたけど違うの。病院で検査してもらったので、もうすぐ結果がでると思う」と明かした。「すぐに治ると信じていたし、心配かけたくなかったから連絡しなかったの」

「病状が分かったら、知らせてほしい」

「分かった。約束する」自宅で療養しながら、検査結果を待つ明日香の声はいつもよりも力がなかった。

 明るく健康的に見えていた明日香のガラス細工の脆さに、少年はたじろぐしかなかった。彼女の健康美が萎れた花に変化するのを見たくないと思った。少年には、自分を取り巻く世界の輪郭が薄ぼんやりとしたものになった。

 翌々日、明日香が、再生不良性貧血で入院したのを知らされた。少年が見舞いに行くと、明日香は身体を起こし表情を明るくした。昼食を終えたばかりなのか、食器の回収のワゴンが廊下を往来していて、病室の中にも係員が入って来た。

 病院では、患者の療養ため、施設の二十四時間稼働や、高度医療機器の利用などで、エネルギー消費量が大きくなる要素が多く、厚生労働省では――地球温暖化対策の一環として『病院の省エネ推進』を打ち出していた――のを少年は思い出した。

 病室に入ると、甘酸っぱい匂いがした。食べ残しの桃の缶詰が目についた。

箕島は、優しい視線を向けて明日香の枕元で話しかけていた。パジャマ姿の明日香や病院の雰囲気に似つかわしくない洗練された装いで、箕島はベッドに横たわる明日香に小声で話しかけていた。

 箕島が帰った後、少年が尋ねると明日香は

「箕島先生は、私を心配して音楽CDとプレーヤーを持ってきてくれたの」と、指先で示した。

 CDには「癒しの音楽」「ヒーリング・ミュージック」「ソルフェジオ周波数」などの文字が躍っていた。

「担任でもないのに、なぜだろう?」

「先生には、私はとても印象深い生徒なので、心配になって見舞いに来たって……、早く元気になって欲しいって、励まされちゃった」

「理由はそれだけ?」

「病気には音楽を聴いて、気持ちを紛らわせるのが一番だ――とも言っていた」

「僕は箕島先生を見直したな……、というか、最初から魅力的な良い先生だと思っていた。どこか、明日香ちゃんに似ている」

「私は、そんな風に思わなかったの。あんな良い先生だったなんて……、人の先入観って当てにならないね」

 少年が見舞いに行くと、明日香はヘッドフォンを耳に当てて、いつも音楽を熱心に聞いていた。明日香は、病人とは思えないほど、明るく元気そうな表情を見せて「音薬効果って本当にあるのね。いつも、箕島先生に貰ったCDに勇気づけられているの」と、ほほ笑んだ。

「キング・コングは聞いている?」

「えっ?」

「ほら、映画の『キング・コング』の愛のテーマ――だったかな。あのあと、僕も聞いたけど、綺麗な曲だった。明日香ちゃんの言う通りだ」

 明日香は、横になりながら体の向きを変えて、手を伸ばして一枚のCDを取ると少年に示した。

「『キング・コング』の愛のテーマ――も聞くけど、箕島先生がくれたこのCDを聞いていると、細胞レベルで癒される気がする。本当に先生には感謝の気持ちしかない」

 明日香は病室では、いつも笑顔を見せた。目だけが不自然に輝いていたので、少年には周囲への気遣いで、無理して笑っているのが分かり、痛々しく思えた。

 少年は自分が発電所だとすると――明日香は太陽光エネルギーで自分に活力を与えてくれる存在――と、考えていた。今は病気で雲の後ろに光が隠れていたとしても、晴れれば明るい陽光が周りを照らす――と予感していた。

 音楽の効果なのか、明日香は元気を取り戻し、頬にも生気が戻っていた。

「再生不良性貧血は、あと二ヶ月もすれば完治するの。受験に備えて、病室で悪戦苦闘している」

 明日香が倒れて以来、少年は嫌な予感で背筋を凍らせていた。明日香の明るくも、健気な表情を見ていると、ほっとしていた。

「今年の受験は残念だったけど、二ヶ月で治れば来年チャレンジできる。また、僕と同級生になれるだろ」

 省吾も、数学の問題でミスをして志望大学に落ちていた。皮肉にも、少年には、救いのように思えていた。

「大学に入学したら、また浩平と三人で山登りをしよう」

「今度は、有麻ちゃんや省吾君を誘って五人で登山しない? さすがに、同じテントはまずいから、テントは二つ用意するの」

 明日香は、声を弾ませた。

「いいね。また六甲山にする? 高い山に登るのなら、身体を鍛えないとダメだ」

「病気が治ったら、ジムに通って身体を鍛えようかな」

「あまり、無理をしない方がいい」

「大丈夫よ。私って、こう見えても無敵キャラだから……」

 少年は頭の中で――省吾は、中学卒の浩平を理不尽なまでに見下すようになっているから、五人で登山は無理だな――と、漠然と思い浮かべた。だが、今のタイミングで声にするものでもなかった。

 教室で授業を受けている時も、明日香を案じる気持ちで頭の中が氾濫していた。さらに、車体工場での仕事の疲れが重なり、たびたび居眠りをして、教師の声に叩き起こされた。

 横光は「お前のことだから、深夜まで勉強しているのは分かる。だが、せめて起きている振りぐらいはしてくれ。でなければ、先生も庇いきれなくなる」と、ポンポンと二度ほど肩を叩いて通り過ぎた。

「先生に何を言われていた?」庸蔵は遠慮会釈なく尋ねた。

「励まされただけだ」

「それもお前の人徳だな。俺だと、そうはいかない」

 少年は中学卒業以来、苦労を経験しつつも周囲の人間に自分が支えられて、頑張れた事実を忘れたためしがなかった。中でも、明日香の存在は別格といっても過言ではなかった。

 アルバイトと勉強の合間に、病院に見舞いに行った。浩平や庸蔵と遊ぶ時間が削られた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る