第13話


 明日香の指摘を聞いてから、箕島優那の動きをチェックしたものの、少年には挑発的な行動には見えなかった。むしろ、可憐な大人の女性の姿に、明日香の将来像を写し見ていた。箕島には明日香と同じ、茶目っ気があり、明るさが内在していた。

 箕島の色香を伴った可憐さは、内側から外に滲み出るものにしか見えなかった。――箕島先生は美しい身体の曲線や、しなやかな手足が自慢の年上の上品な女性――に思えた。

「僕は、箕島先生を優しい良い先生だと思う。上品で可愛らしいから好きだ」

「え? 上品だって……。下着が見えそうなミニ・スカートを穿いたり、胸の谷間を誇張したりする女が上品なのかな?」明日香は不満そうに頬を膨らませた。「本当は、どういう意味で好きなの?」

「生徒思いで熱心なところかな」

「男子生徒に、変な意味で熱心なのでしょ?」

「先生は絶対に、純真な人だ。変な意味はない」

「私と、どっちが好き?」

「相手は先生だぞ。比較にならない」

「どっち?」

「それは、決まっているだろ」

「あの先生なの?」

「逆だよ。明日香ちゃん……。でも、やっぱり比較するのは変だろう」

       ※

 高校二年の進路相談では、大学で何を学ぶかを問われた。少年がテーマとして来た――エネルギー問題と解決手段の構築――は、物理学、化学、社会学、政治学まで幅広い範囲に及んでいる。

 世界を変えたいという野心は、誇大妄想狂の熱望とも、出世と栄達のためとも異なり、現実にある不具合を改善し、大勢の人々を助けたい――という、理想から出ていた。

 科学者になる決意を固めると、物理学に興味を強く感じた。反面、アイザック・ニュートンやアルバート・アインシュタインのような天才にしかなしえない偉業なのではないか――。想像すると、途方もなく大それているかに思った。

 横光に問い詰められると、少年は心の中で揺れに揺れ、将来への希望を選ぶか、家族の家計を支えるかと、強く迫られている気にさせられた。問われれば、問われるほど、少年は大学で物理学を専攻し、卒業と同時に大学院に進むか、会社員になって親孝行するか、進路について悩んでいた。

 凛咲は中学一年生になり、母親の手伝いをしながらも、勉強や部活のテニスに力を入れており、今の実力のまま進級すると高校進学にも希望の持てる状況だった。

 家計への負担を考えると、自分一人が家族の期待を担うのが妥当なのかどうか、少年は葛藤し続けていた。

 久しぶりに浩平に会うと、身体つきが大きくなり、鍛え上げた筋肉質な体形になっていた。川沿いの道を散歩しながら、二人は話し続けた。

「菓子工場では、若手の俺が原料の重い袋を担ぐから、良いトレーニングになる。それにベルト・コンベアーに流れてくるものを素早く、適確に扱うので瞬発力も身に着く。俺は要領がいいから、目をかけられている。高校に進学したお前を羨ましく思った時もあるが、今は現状に満足しているよ」

 少年は町工場で働いていた頃を思い出し、懐かしい気分になった。親のすねを齧る――という言葉があるが、随分と母親のか細いすねを齧り、弱らせていた気がして、辛くなっていた。

 いっそ、浩平と同じ菓子工場で修行して、同じ夢を追った方が親孝行ではないかと懐疑的になっていた。

「それに……」と、浩平は付け足した。「適度に身体を動かす作業をしていると――今日も一仕事やり遂げたなあ――という、充実感がある」

「正直言って、僕は浩平が羨ましい。君の方が一足先に、大人の男として立派になっている気がする」

「雄大は、俺のようになったらダメだ。俺の目標と、お前の目標は質が違う。お前は科学者になってエネルギー問題、環境問題を改善したい――という大きな夢がある。それは、俺の夢にも負けないだろ? お前はお前の道を行くべきだ」

 浩平は中学卒であるのを苦にせず、健康な自負心を持って日々の仕事に臨んでいるのが理解できた。それが、少年には眩しくも、潔く感じられた。反面で、浩平の意見は正しいと思いつつも、情けない気分にさせられた。少年は、自分よりも日々の生活を真摯に見つめている彼を尊敬していた。浩平に誘われて彼の家に着くと、おばさんは少年を見て「お久しぶり」と、笑った。

 部屋は狭く、家具もテレビや冷蔵庫などの電化製品も、少年の家よりも小さなものが置かれていた。浩平やおばさんの明るい性格と、日当たりの悪い狭い家の雰囲気は不釣り合いに思えた。

 おばさんは、二人に三笠饅頭と紅茶を出してくれた。饅頭は硬くなっていてあまり美味しいとは言えず、紅茶には砂糖とミルクの代わりにコンデンス・ミルクが入っていたので、少年は胸やけを感じた。

「ありがとうございます。美味しかったです」

 社交辞令とはいえ、嘘の後ろめたさが美意識に抵触し、苦しい気持ちになった。おばさんは幸福そうな表情で「美味しかったのね。それは良かった」と、声にしてくれたので救われた気分になった。

 少年の家庭は貧しいものの、家は祖父母の代から受け継いだ大きな敷地と建物だった。家具や調度品も父親が存命中にあったものなので、見事な造作だった。浩平の暮らし向きを見ているうちに、少年は自分を責めたい衝動に駆られた。

 少年は、幼少のころから成績が優秀だったため思い上がり、周囲の状況が見えていなかったのではないか……。教師のおだてに乗り、進学に何の疑いも持たずに、家族に迷惑をかけてきた自分とは、はたして何者なのか、と思うと、途方もない気持ちになった。

 本当に優秀なのは、日々の仕事に邁進し、家計を支えている浩平の方かもしれなかった。

「俺の家は狭苦しくて、みすぼらしいけど、いつか働いて貯めたお金で、家族に大きな家を建ててやりたいと思っている」

「立派な心掛けだ」

「まあ、聞いてくれ、雄大。中学を卒業してから、色々な仕事の経験を積んできた。居残りして機械の操作を覚えたり、工場で扱っているお菓子の勉強をしたり、俺なりに努力してきた。上の人にも期待されている。これから、経営も少しずつ、覚えていくつもりだ」

 浩平は、カバンの中からカラー写真入りの本を取り出して

「洋菓子には、こんなにたくさんの種類がある。これを全部、作りたいぐらいだ」

「パティシエの勉強もした方がいいな」

「いずれ、そうしたいと考えている」浩平の目は輝いていた。

「夢があっていいな」

「お前の夢には、負けているかも」

「僕は科学者になって、研究するのが夢だ。でも、まだ成功するかどうかは分からない」

「一生、勉強なんて俺には考えられない」

「君だって勉強家だ。お菓子の種類や作り方の知識では、同世代の誰にも負けないじゃないか」

「座学一辺倒ではなくて、俺の頭の中にあるのは、工夫するための知識、身体を動かすための知識だ」

「僕もそうありたいと思う。世の中の役に立つ知識を学んで成功したいと考えている」

「それで成功したらどうなる? 日本はよくなるのか? 俺が作ったお菓子よりも、大勢の人が喜ぶのか?」浩平は少年の方に身を乗り出した。

「研究の結果次第では、日本の現状が変化するだけではなく、世界にも影響する」

「お前は最高の山師だよ。一発当てれば、一財産築けるな」

「僕も、そうなると嬉しい」

 街の中は建物が密集し、歩道の上を大勢の人が行き交う姿があった。二人は公園に入るとベンチに腰かけた。

 浩平は大きく伸びをすると「俺は絶対に一流になってやる」と思いを吐き出し「技術も、知識も必要だ。勉強嫌いだった俺が、勉強に次ぐ勉強だ。結局はお前が目指す科学者の道と似たようなものを目指している」と同意を求めた。

「よく分からない。けど、分かる気もする」

「どっちだよ?」

「今、考えている」

 少年は徳さんや浩平と話をすると、明日香といるのとは異質だが気持ちが楽になった。忙しくても、時間をつくってでも会いたい――と、思える数少ない相手だった。

浩平の話を聞くうちに、自分も接客業よりも工場で働いてみたくなった。アルバイトでウエイターの仕事を続けるよりも、工場で働く方が自分には向いていると、少年は思っていた。

 一週間後、店長には、引き留められたものの――どうしても店を辞めたい――と明言すると、それ以上は引き留められなかった。

 タウン誌の広告に目を光らせて、高額のアルバイトを少年が調べたところ、ミニバンの車体製造作業が見つかった。週二日の勤務で月収十万円が入金される。そこで働けば、自分の大学の学費は捻出できた。

 だが、土日の週二日となると、明日香との交際に支障が生じた。そこで、授業の後ですぐに、車体工場に向かい夜遅くまで作業に従事した。車体の製造はプレス→溶接→塗装→エンジン製造→組み立て→検査の六つの工程に分かれていた。

 少年は、クルマの心臓部にあたるエンジン製造部門を希望したが「熟練の技術者でないと点検できない」と却下され、組み立て部門に配属された。車体の組み立ては、流れ作業なので一人の担当が受け持つ作業は僅かだった。

 工場内を歩くと、常に機械音が大きな音を立て、プレス機械やロボット・アームが作動し、各種の部品が見事な車体に変化していく工程が見学できた。

 研修で、場内を見学しているとき、大きな部品を持ち上げて走行し、ボディーを反転させて機械にセットするまでの一連の作業をロボットが担当しているのを見て思わず「うわーっ」と声を上げた。海外のSF映画で見た未来都市にいるような気分になっていた。

 少年が担当する組み立て工程は、流れ作業なので、動き続けるベルト・コンベアーを見ながら、集中力を維持して臨む必要があった。持ち前の探求心と手先の器用さに救われて、作業が上達したため上席から重宝がられた。

 新しい居場所が見つかったものの、過酷な毎日が続いた。帰宅後、勉強をすると一日の睡眠時間は削られ、平均四時間となった。日中睡魔に襲われて、瞼が重く感じられる日が増えた。眠気が強くなると、太ももを強く捻った。何度も繰り返すうちに、両足に無数の青あざが残っていた。

 車体組み立てのアルバイトでは、居眠りこそが大敵だった。工場内は機械が作動するときの重厚な音と、金属の擦れ合う軽妙な音とが入り混じり、不協和音が耳に届くものの、少年を襲う睡魔には勝てそうもなかった。そのため、作業の合間を見て、濃いブラック・コーヒーを飲むのが習慣になった。

       ※

 勉強のために、彼女の家の個室に二人でいると、不健全な空気で淀みそうな気がして恐ろしくなっていた。明日香は日増しに、魅力的な大人の女性への上り坂を進んでいた。

 勉強部屋の本棚には、偉人の伝記、名作の文学全集、参考書や問題集に混ざって、恋愛もののライト・ノベルが並んでいた。別の棚には、動物の縫いぐるみや、アニメキャラのフィギュアが置かれていた。小説のタイトルを見ると、ファンタジックなものが多く、少年には明日香の人柄の良さが明示されているかに推測できた。書棚にあったライト・ノベルや少女漫画が明日香の健全性を維持させている気がした。

 部屋の中は、綺麗に整頓されていて清潔感があった。少年が息を吸うと、バラの芳香剤の匂いがした。

 明日香が身体を近づけるたびに、少年は息苦しさを感じ始めていた。外面の装飾を施された美しさを見せるだけではなく、自分の前では心を裸にして、内面に潜む、複雑で繊細な薄桃色の襞の奥までさらけだしてくれた。

 中学生の頃は、想像できなかった生命の躍動や神秘的なムードを目にすると、少年は興奮を覚え、眩暈を感じていた。自分たちは、成長とともに変質し、異世界の扉を開こうとしている気がしていた。

 男性的な衝動が胸の内から沸き起こるのを避けるために、少年は明日香との間の椅子を離すと、他愛ない会話に終始した。

「今度、スタジオジブリがアニメ映画を上映するから、三宮で一緒に見ない?」

 少年は気持ちを紛らわすために、外で会いたかったが明日香は

「他に何かない?」と、問い返した。

 明日香には、胸の内の葛藤が理解できないのか――と、失望していた。

「映画を見に行くのもいいけど、もっと有意義な体験をしない?」

「たとえば、どんな?」

「中学生の頃に、一緒に登山したでしょ? あんな風に、ワクワクしたいな」

「もう、こりごりだよ」

 窓の外を見ると、明るい日差しの中を小鳥が飛んでいるのが分かった。家の外の景色は、二人に書物を捨てて、外の空気を吸うように促そうとしているかに思えた。

「何がしたいの?」

 明日香に問いかけられると、少年はボランティア活動を思い浮かべた。

「ボランティアをやってみるとか。倫理の先生が、利他的行動が人間の営みの中でもっとも、美しくて尊いと言っていただろ? そういう、美しいことをやろう」

「どんな?」

「外に出て、身体を動かすボランティア活動をしてみないか?」

「いいね。やってみようよ」

 ボランティア活動なら、周囲に非難されずに二人で冒険ができた。

「どんなのがあるか調べておく」

 調べるとボランティア活動には、多様なものがあるのに少年は気づいた。中でも、高校生が参加できそうな街中のクリーンアップ活動、森林保全、農作業ボランティアなどが目を引いた。

 石油、天然ガス、他の資源が枯渇し、危機が叫ばれる一方で、これらの従来型の燃料の環境汚染が指摘されている。地球は病状を露呈し、悲鳴を上げている中で、人間の愚かなまでの美しさに触れられるのは、ボランティア活動しか考えられなかった。

 勉学と努力とが、次の展開につながらない抽象思考と狂気を生み出すものなら、少年には方向性が見いだせなかった。机に向かって知識を詰め込み頭でっかちになったときは、身体を動かすのが良い――と、少年は漠然と考えていた。

 明日香は椅子から立ち上がると、窓を開けて外の空気を招き入れた。ヒヨドリの甲高い鳴き声が耳に届いた。

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