第12話

 少年が机に向かい考え事をしていると、スマホが鳴動した。手に取って、目視で確認すると

「もう一度、つき合わない?」明日香は唐突に、メールを送信してきた。「ただし、あんな事をしたら、本当に絶交だからね」と、追記していた。

 少年は自分を責めたくなり、恥ずかしくなった。まるで、みっともない罪人の気分になりつつも「約束するよ。いつ会える?」と返信した。しかし、メールを返すと、心が軽くなっていた。

 明日香からの返信メールには、彼女の都合の良い日が複数記されていた。中には、少年の都合のつく日があったので、約束の日時が決まった。

 六甲登山以来、少年と明日香の結びつきは強くなり、僅かな不都合では綻びそうもなくなっていた。それが一度、破綻した後で修復できる機会を他ならぬ明日香本人から申し出てきたのを有難く思った。

 思春期の少女の揺れ動く女性心理が謎のように思えた。少年はつらい経験をしたが、明日香の方が衝撃を受けたのに相違ない――と、考え直した。

 男同士の友情と違い、異性との交際はガラス細工でできていた。細やかな配慮ができないと、恋愛の樹木が育たないのを少年は実感していた。

 庸蔵と、恋愛談議になると「男は陰陽の陽だから、外に思惑が出やすいが、女は内向している。女だって、分厚い仮面の下で抱かれることを夢想し、綺麗な衣服の下に淫らな肉体を性欲で湿らせている」と、クールに言い放った。

「俺は男も女も理想化しない。相手に理想を見て、後で傷つきたくないからな」

随分、達観した風な話をするな――と、少年は考えていた。

「相手を自分の欲の対象としてしか見ないのは不自然だろ? 理想がないと、人間的な成長を阻害する。大事なのは、理想と現実の間にできた隙間をいかにして埋めるかだと思う」

「俺の考えでは、欲望は人間の成長に必要だけどな。求めすぎると渇きだけが残る。そこが要注意だ。それだけだ」

 恋愛の果実は、現実を生々しく捉える構えではなく、甘美な夢想によってしかすくすくと育たない樹木だと、少年は意識の奥深くで感じていた。明日香の表情や声から、繊細で詩的なイメージを感じ、そこに愛すべき本質が内在していると信じていた。

 が、庸蔵は「相手を理想化するなんて、甘っちょろい妄想に過ぎない」と、言下に否定した。

「人間はエゴの怪物でも、欲望の奴隷でもない。理想の美や心を愛するから、人間が人間的でいられると思う」

「綺麗ごとだな。まあ、お前はそう考えておけばいいよ。俺は、雄大と議論するつもりはない。人それぞれじゃないか」

「相手の理想化によって、長所や美質を見つけるのも簡単にできる」

「俺は、お前と逆を思っていた。だけど、もういい。いくら話しても、平行線をたどるだけだ」

 庸蔵は、恐ろしいほどに現実論者だった。少年とは意見が対立するケースが多かったものの、逆に――庸蔵ならどう思うだろう――と考えると、彼の意見を参考にしたくなった。

 少年は、庸蔵に会って話をするたびに、理想と現実の間には、どれほどの空隙があり、どう埋めれば良いのかと想像を膨らませた。

 庸蔵と話しているうちに、明日香も――つがいの小鳥のように、男性の自分と二人で過ごす時間を欲して求めているのか――と、ぼんやりと推し量った。

 少年は明日香と再会すると、約束を交わし外に誘った。レストランで食事し、植物園を散策し、映画を見て感想を述べ合う毎日が戻って来た。会うたびに、二人は充実した時間を過ごした。明日香の内面が、庸蔵の指摘する淫らさとは、ほど遠い存在だと考えていた。

 明日香との溝が埋まり、交際が再開されると気持ちに張りができて、勉強がはかどった。明日香も同様に、志望大学への歩みを着々と進め、充実した日々を過ごしている様子だった。

       ※

 区内の公園には、野球グランドやテニス・コート、多目的広場があり、広場の中に滑り台、砂場、ブランコ、ジャングル・ジムが配置されていた。少年は、明日香と並んでテニス・コートの前のベンチに腰掛けると、ボールの行方を追いながら、話し込んだ。

 アマチュア・チームの野球の試合を観戦し、アイス・クリームを賭けて勝敗を予想した日もあった。予想の戦績は少年の一勝二敗なので、一つだけ多くアイス・クリームを進呈していた。

 公園のベンチに腰掛けながら、明日香は「雄大君って、エネルギー問題や環境問題に詳しかったよね」と口を開いた。

「今更、何を言いだすのかと思ったよ」

「それなら、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』は知っているでしょ?」

雄大は、明日香の口から『沈黙の春』という言葉が飛び出すとは予期していなかった。『沈黙の春』こそ、明日香にすすめたいと思っていた本だからだ。

「私は、あの本を読んで、人間は動物や植物と共生している事実を忘れて、自然環境をいかに破壊しているかを考えさせられた。正直に言って、人間の思い上がりと強引さが悲しくなった。過去の科学文明は、自然に優しくて労わり深いものでなかったのね」

「でも、悲しいことに、自然環境を改善できるのも人間しかいない。それに、環境を改善できるのも科学の力だよ。それが現実だと思う。僕の永遠の研究課題だ」

 話し終えると、明日香は「しばらく、こうしていたい」と肩に頭をのせて目を瞑った。少年は照れくささで頬が熱くなるのを感じながら、肩を揺らすのが明日香への裏切りに思え、じっとしていた。

 十五分が経過し、明日香は肩を上げた。退屈な時間が過ぎていく間は、少年は中学時代からの明日香との思い出を頭の中で数えていた。

「私は、あなたのような人に、会うために生まれてきたと思う」

「どういう意味?」

「言葉で説明するのが難しい」

「よく分からない。運命って本当にあるのかな」

 少年には、それが明日香の口から飛び出した言葉にしては、随分と浮いたセリフのように空疎なものに聞こえた。何故か判然としないが、すぐそばで耳にしながら、どこか遠くから囁かれているかに聞こえていた。

       ※

 高二の全国模試の結果、志望大学のA判定が出た。少年は、学問への目もくらむような希望で胸が膨らむと、全身に鳥肌が立った。早く大学のキャンパスを歩きたい。ノートに研究内容を記し、十分な考察を試みたいと念じていた。

 しかし、志望する大学に合格したとしても、研究者への道程はまだ遠く峻険な頂にたどり着く前に、いくつもの難路が待ち受けている気がした。

 苦々しくも、尖った空気の中で鬱屈と暮らすのではなく、晴れやかで香しい風に吹かれて、毎日を暮らしたい――と、少年は念じていた。

 三宮の繁華街を歩いていると、都会の森の混濁が、孤独と不安と興奮を感じさせ、誰からも見えないところで泣き叫びたい心境になる日があった。家庭環境に恵まれ、親兄弟の寵愛を受け、塾に通う生徒たちと少年は競い合ってきた。

 それは、少年の誇りでもあり、惨めな劣等感でもあった。自分だけが、明日の暮らしの分からない裸の獣のように思えると、胸の奥深くが、ジンと痛くなった。闇のような孤独は、明日香と一緒にいるときだけ、不可解かつ強大な力で癒されていた。

 明日香の周りは、特別に鮮やかな色彩が取り囲み、風の匂いまで香り豊かに思えていた。血肉の通う肉体や、膨らみや窪みが他の誰よりも価値ある存在に見えると、憧憬の念に打ちのめされずにはいられなかった。

 恋愛の持つ甘美な価値は、向学心や探求心に勝るのか――と少年は、想像をめぐらせた。いずれにしても、明日香の存在が励みになっていたのは間違いなかった。

       ※

 音楽室は教室とは雰囲気が違い、真ん中にあるグランド・ピアノに箕島優那が腰かけて、演奏し歌を歌うと和やかなものになった。しなやかな身体つき、透き通る歌声は、勉強とは異質なムードを感じさせた。

 授業中に、箕島は女子生徒よりも、男子生徒に視線を送りよく声をかけていた。

少年は、目を離すと騒ぎかねない男子生徒に注目する構えで、牽制しているものと理解していた。

「あんな女が恋人だったらなあ。俺なら、毎日でも抱きしめてキスしてやるよ」庸蔵は美貌でスタイルの良い音楽教師に憧れていて、普段から好意を寄せていた。少年にも「あの先生に告白したら、どういうかな」などと、問いかけてきたがジョークだと思っていた。

 庸蔵がおどけて卑猥なしぐさをし始めると、男子生徒は囃し立て、女子生徒からは非難の声が上がった。

 音楽教師の箕島は、蠱惑的で女子高生とは別格の大人の女性を思わせる可憐さが目についた。男子生徒には人気があり、女子生徒には総スカンを食う典型的なタイプに思えた。

 新鮮なサクランボの果肉を思わせる肉感的な唇が開き、甘い声が聞こえると大半の男子生徒が心を奪われていた。音楽の時間は、庸蔵の挙動が心配になった。

 休憩時間に、明日香に話すと「あの先生、スタイルに自信があるのかな。でも、身体のラインがはっきり分かる身なりで、教壇に立つのをやめてほしい。私が一年生の頃に、ミニ・スカートで椅子に座り、足を組み替えていたのよ。男子生徒を挑発していたと思う。女子生徒で申し合わせて、ミニ・スカートを穿かないように抗議したの。彼女は綺麗だけど、美貌を鼻にかけるのをやめてほしい。ほんと、大嫌い」と、不快な表情をあらわにした。

「そんなものなのかなあ。生徒思いの良い先生だと、思うけど……」

少年は箕島の柔らかなムードは、充実した内面から出ていると信じたかった。

「今度さあ、生徒の席に来た時に、男子生徒の傍と女子生徒の傍とで、接近距離を見てみると良いわ。特に成績のいい子や、イケメン男性には、身体を近づけてくる距離が違うのよ」

 進学校の特徴なのか、副教科の授業や教師を軽んじる生徒が散見された。音楽、美術、技術家庭科、保健体育は、受験には関係がないため、教室内には主要教科の参考書を広げて堂々と学習する不届き者まで存在していた。

 学年一の秀才の征矢も「受験は甘くはない。内申点を気にしすぎるな。副教科の成績は、進学には響かない。これからは、主要教科を集中的に勉強しないと、トップ・クラスの大学への進学は無理だ。選択と集中が肝要な時期がきている」と、強弁した。征矢の副教科の成績は平均的だった。

「女教師は美人よりも、不美人で説明能力の優れた人物の方が望ましい。雄大は、まさかあの女に幻惑されていないよな」

「僕は、魅力的で面倒見のいい、優秀な先生だと思っている」

「面倒見の良いのは、担任の先生だけでいい。教師なんか、受験の邪魔にならなければいい」

 周囲を見回していると、少年には明るい笑顔の箕島や、彼女に憧れて熱心な様子の庸蔵の悪質さを見つけられなかった。

 庸蔵の成績は、全教科において良くなかったが、主要教科と副教科を区別せず前向きに取り組んでいるのが感じられた。

「女は愛嬌、男は度胸、受験は要領というけど、俺はそんなに要領よくなれない」

「うまく、脚韻が踏めていない。というか、受験だけゴロがあっていない」

「そこが愛嬌だと思ってくれ」

「女か? 君は……」二人は爆笑した。

 少年は征矢の優秀さよりも、庸蔵の潔さと要領の悪さが魅力的に映っていた。

「受験、受験と人は言うけど、大学進学がそんなに大事なのかねえ」いつもの庸蔵節が始まると、少年は何故かノスタルジックな気分になった。

「君だって、僕と同じ高校に進学したぐらいだから、中学時代は成績優秀者だ」

「神童とも才子とも呼ばれていた俺だから、この年になって空しくなっている。これで良いのか――と、疑問に思う」

「無目的に生きるのは、僕には無理」

 少年は苦労を経験する中で、将来に希望を抱き目的を持って生きる構えにしか、喜びを見出せなくなっていた。進学校に合格できたのは、優秀さではなく不器用さのお陰だ――と、少年は考えていた。

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