第11話


 少年は、再び明日香に誘われて家に行くと、二人きりの部屋にいて彼女を身近に感じると同時に、強い衝動に駆られた。自分なら、理性的に振舞えると確信していた。それが、明日香の柔らかな曲線を意識していると、抑制が効かなくなった。彼女の肩に触れ、力強く後ろから抱きしめていた。

「好きだ」少年が告げると、明日香は驚いたように振り向き

「何をするの? こんなつもりじゃ、なかった」と、抗議し押し黙ってしまった。

 明日香なら思いを受け止めてくれそうな気がしていただけに、少年は傷つき狼狽していた。彼女が自分を徒に翻弄していたのかと感じると、何を信じて良いのか分からなくなっていた。真意がどこにあるのか――、しばらく考えても、明日香の内心の思惑は容易に理解できない気がした。考えた末に、自分が他人の気持ちを無視して行動した事実に驚いた。

 明日香の家を出ると、いっそう強く胸に痛みを覚え、とぼとぼと自宅に帰り着いた。いったい自分は、何をしでかしてしまったのか――と、少年は後悔した。

 夜になり、まずは明日香の気持ちを慰め、謝らなければと思うと受話器を握りしめていた。電話口の明日香は、「ごめんな。もう、あんなことはしないから」と言うのを耳にしながら「うん、うん」と頷いていた。

 頭の奥が冴えていて眠れなかった。一晩寝なくても、死にはしない――と、少年は思った。しかし、眠らないと多忙な毎日を乗り切れそうもなかった。

 少年は異性を異種の生命体のように、畏敬と恐怖の入り混じったイメージで眺めていた。愛情を示す行動が、人を混乱に陥れ、傷つけて溝を作るのが奇妙に思えていた。それでいて、心の中では明日香との関係を修復したいと念じていた。

 自分がまるで獣性を隠して生き続ける魔物のように思えると、苦しさで息が詰まりそうになった。

 日を追うごとに、明日香の反応は冷ややかになっていた。一週間が経過すると、何度、電話しても明日香は出なくなった。メールにも応答がないので、少年は心細くなっていた。

 やっとメールの返信が届いたと思うと「もう、あなたには会いたくない。高校生は学業が本分でしょ。今は愛だの、恋だのと騒ぐ時期ではなくて、真剣に勉強に取り組む時期なのよ」と、書かれていた。今までの明日香の言動からは想像できないほど、冷淡に感じると、少年は戦慄を覚えていた。

 失望と共に、頭上には真っ黒な暗雲が立ち込め、湿気を帯びた空気が当たり一面を包むと、心の奥深くまで雨が濡らしそうなに感じた。少年は、しばらく窓際に立ち呪わしい空を睨みつけた。

       ※

 少年はアルバイトの勤務ローテンションで、日曜日に休めたので久しぶりに浩平に会った。高校には、一年遅れで入学したので、覚悟はしていたものの、屈辱的な気分になる日もあった。そんな時は、旧友と話すのが慰めにも、励みにもなっていた。

「高校の成績は、足踏み状態だ。それに、明日香との交際は、すれ違いばかりだし、アルバイトで稼いだお金を家に入れる以外に有効な使い道が見つからない」

「馬鹿だなあ。成績の良かった雄大の方が、俺よりも馬鹿だ」

 三宮のセンター街でランチを食べながら、近況を聞くと浩平は

「お前の悩みが羨ましいよ」

「どういうことだ?」

「大学進学、恋人との交際、お金の使い道をどうするか……、まるごと自分の悩みにしたいよ」

「悩みは深刻だ」

「俺の将来の夢は、経営者になることだけど、まだ見通しはまったく見えない。それに、恋人と付き合える機会がない。お金の大半は、将来の貯金に回している。でも、俺の夢は、一度も俺の前から姿を消したためしがない。今はぼんやりした夢でも、いずれはっきりとした形にできると思っている」

「そんなものか?」

「俺はそう思っている」

「ありがとう。今日は、会って良かったよ。浩平は、三人で山に登ったあと、職員室で搾り上げられたときに、僕ら二人をかばってくれた。あのときの経験は、絶対に忘れない」

「俺も、お前に助けられているだろ?」

「そうだったか?」

「ああ、覚えていないのか?」

「どうかな? それはどうでもいいよ」

「おかげで気が楽になった」

「同感だ」

 ランチの後、二人はゲームセンターに行き、UFOキャッチャーに挑んだ。ゲームセンターは、大勢の客で賑わい、ゲーム・マシンから出る音と、話し声などが混じり、二人は接近しないとお互いの声が耳に届きにくくなった。

 浩平は、ゲーム台を選ぶために、何度も行き来して立ち止まると、器用にレバーを操作して、アニメの少女のフィギュアを三つも手に入れた。

「これが一番、明日香ちゃんに似ているな」と、一つのフィギュアの箱を少年に手渡し「当分は、これが明日香ちゃんの代わりだ」と、楽しそうに笑った。

 少年はフィギュアの入った箱を受け取ると、しげしげと眺めた。静かな雰囲気のある明日香と比べると、伸びやかな手足が随分溌溂として見えた。

 フィギュアの少女は、肉質感も温かみもなかったが、片手で握りしめられるほどか細くて軽かった。

 自分が他の高校生と同様に受験勉強に挑んでいるように、浩平が徳さんと同様に職業経験を積んで、将来の独立自営を目指しているのを眩しく感じていた。

 志の高さでは、浩平は高校の同級生に引けを取ってはいなかった。クラスメイトの中には、医師や法律家や政治家を目指す者がいたものの、実現可能性の高さからすると、浩平の将来設計の方が確実なものに思えた。

 ゲームセンターを出て別れ際に、浩平は何度も振り返って見ていた。

 日が暮れると少年は、自信を取り戻すため、町工場の出来事を思い出した。――工場で熟練工と勝負して、鼻を明かした日の場景だった。

 作業台に置かれた部品を手に取ると、熟練工は「いくらお前でも、俺よりも早く正確に研磨できないだろう?」と、少年に勝負を挑んできた。手作業による表面の仕上げに、長年の経験が必要な事実を承知の上で、熟練工は挑発しているのが明白だった。

 周囲には、見物のために工員が集まって、成り行きを見守っていた。手先の器用さと正確さを要求される難しい作業だった。誰も彼の勝利を確信しているものはいない様子だ。

 少年は挑戦を受けて立つと、部品を手に取り何度も角度を変えて眺め、イメージ通りに表面を研磨した。二人の男が作業台で勝負するのを周りの職人は、面白そうにはやし立てた。

 徳さんは傍に来ると、耳元に口を寄せ「あいつに、一泡吹かせてやれ」と、囁いた。

 少年は、仕事が終わると毎日、イメージの中で手順を再現し、納得できるまで繰り返してから眠りについていた。

 二人は目前の部品の工作に集中していたので、どちらが先に作業を終えるか分からなかった。周囲の職人の応援は熱を帯び、少年が善戦しているのに興奮したのか、声が大きくなっていた。

 作業台の前に立つ二人は、目の前の部品に集中し、汗を流して格闘していた。周囲はボクシングのタイトル・マッチを特等席で観戦する客と同様に、両者に声援を送り盛り上がっていた。作業は、二人ともほぼ同時に終えていた。

 完成した部品を周囲が見守る中で、徳さんが計測すると、少年の部品の方の精度が高いのが判明した。

「この出来栄えなら、自信を持って商品として出せるな」徳さんは両肩をつかむと「でかした」と、嬉しそうにほめた。

 徳さんは、堂々とした体格で優しい眼差しをしていたが、弱い者いじめには加担せず、少年がからかいの対象になっていると、そばに来て周りを威嚇してくれた。

 誰かに、頭を小突かれていると「雄大に手を出すな」と、鋭くドスの効いた声で相手を𠮟りつけ、嫌味を言う者には「文句があるのなら、雄大にではなく俺に言うようにしろ」と告げた。――懐かしく、誇らしい出来事でもあった。

 少年は自分が敵わないのは、徳さんぐらいだと思っていた。徳さんの仕事に取り組む姿勢は、研究者に通じるものが感じられた。技術の向上に余念なく取り組み、機械に向き合う姿を見て――自分も、徳さんのようになりたい――と、憧れていた。

 梅雨の頃に、町工場の中庭にある紫陽花が咲いていた光景や、夕日に照らされた建物がもの悲しく見えた情景まで、想起すると懐かしさが込み上げてきた。少年は町工場で働いているときに、上司の徳さんから貰ったクロム銅の部品を手に取って見つめた。徳さんは――辛い日があったら、この部品を手に取って、町工場で働いていた 日々を思い出せ――と、背中を押してくれていた。

 賢明な徳さんは、少年がいつか今のような状況になるのを予見していたのではないかと思った。

 学校の創立記念日が休みなので、少年は昼休み時間をねらって、町工場を訪ねてみた。記憶の中の徳さんは、いつも休憩室でおにぎりを食べていた。工場の外壁は、明るい色のトタンに張り替えられ、少年が働いていたころとは、雰囲気が違っていた。

 休憩室でテレビを見ていた徳さんは、少年を見るとすぐさま立ち上がり近づいてきた。徳さんは、首にかけたタオルで汗をぬぐい、目を細めた。

「お久しぶりです。徳さん」少年は、手土産の今川焼を手渡した。

「お前も、食べていけば良い」

 徳さんは、急須から二つのコップにお茶を注ぐと、少年に席をすすめた。皿には今川焼が二つずつ並べられた。

「俺の好物を覚えておいてくれて嬉しいよ」

「昼食の後なのに、二つも食べるのですか?」

「甘いものは、別腹だからな」

 今川焼は、餡がぎっしりと詰まっていた。休憩室の電子レンジで温められたばかりなので、口の中の粒あんの甘さがほどよく滋味があった。

 二人は、今川焼を頬張り、お茶を飲み歓談した。

「雄大は、元気そうだな」徳さんは、嬉しそうに笑うと「あの頃は、お前と仕事ができて楽しかったよ。俺は、今でも経営者を目指している。雄大も、立派な男になって欲しい。俺が、お前と一緒に仕事していたと胸を張って、周りのやつらに威張れるぐらいに……。楽しみにしているよ」

「徳さんに、そう言われると嬉しいです」

「お前と同じ腕の良い職人は、なかなか採用できない。ある意味で工場経営はギャンブルだな。俺やお前と同レベルの従業員ばかりなら、社長も困らないのになあ」

 単純素朴な人間の中には、自分の手柄を見せびらかす目的で、信憑性に欠けるエピソードを話し、次に会ったときには内容を失念して平気なものが存在するが、徳さんはそんな人間とは根本的に違っていた。

 目的を持って生きる人間のすべてがそうであるように、徳さんの真っすぐな視線には、いつも輝きが宿っていた。

       ※

 三学期の生物基礎で「生態系でのエネルギーと物質の流れ」と題して、教壇に立つ教師は、授業の初めに「生態系の中で多様な生物が存在し、光合成や食物連鎖、生殖活動などのドラマが生み出されている。生物の体を構成する要素や動力となる不思議なエネルギーの正体は何なのか。興味を持って学んでほしい」と指示した。

 少年はビジネスに利用されるエネルギーと環境問題をテーマに考察を続けていた。生物の授業を受けて、この世界が壮大なエネルギー・フィールドであるのに気づかされた。

「世界を動かすエネルギーは、現在発電所で産出されるものではなく、至る所に存在している。それらを有効活用するのが、今日的な命題だ」教壇に立つ教師は、チョークで黒板に板書しながら声を大きくした。

 生涯をかけて取り組む研究テーマが、少年の中で決定づけられた。エネルギー問題を深く研究するには、大学に進学し、大学院への進むのは必須項だった。

 多忙を極めた生活の中で、高い学力を維持するのは少年には容易ではなかった。だが、それなくしては叶わない夢でもあった。

 高校一年生の一年間は、形勢が変わり続けた。担任の横光を始めとする教師たちは、少年を叱咤激励し、成績の乱高下を心配した。横光は少年と面談するたびに、長い時間をかけて熱弁を振るった。一度は、横光が立ち上がり、手の平で机を強く叩き「どうだ? 君は真剣に自分の将来を考えているのか? 希望の大学に進学できるかどうかは、やる気次第だ」と、鬼の形相で迫った。

 少年は自宅に帰ると、アルバイトで草臥れていようと、明日香とデートして心が浮き立っていようと、勉強机に向かうと参考書を開き問題集を解いた。パラパラと参考書をめくると、本の質感が指先を刺激し、インクの匂いが微風と共に鼻粘膜をくすぐった。

 翌朝、少年は財布を握りしめると古書店に行き、中古の問題集を五冊買い求めた。久しぶりに一人で喫茶店に入ると、コーヒーを飲みながら買ったばかりの問題集をチェックした。新品同様の落丁も書き込みもない問題集に満足した。

 コーヒーの楽しみは、独特の苦味にあった。しかし、少年はコーヒーにたっぷりの砂糖とミルクを混ぜるのを好んだ。いつもと同様に、ゆっくりと舌先に神経を集めて味わった。彼には、コーヒーの味というよりも、贅沢な気分を味わっている自分自身が心地よかった。

 少年は、喫茶店の様子やウエイターの動きを観察した。アルバイトで経験していたので、立ち仕事の辛さは理解できた。新しい客が入ると、ウエイターは注文を受けて奥のスタッフに伝えた。

 サイフォン式コーヒーのアルコール・ランプで温められて、中のお湯はボコボコと泡を出してフラスコからロートを上り、粉末が入った容器までたどり着くと、焦げ茶色の液体となって滑り降りていた。

 アルバイトのたびに見ていた光景が、角度を変えてみると斬新なものに目に映った。少年は――ここのコーヒーは、アルバイト先で出されるものよりも美味しい――と思い、探求心が芽生えるとじっと観察した。

 受験生には勉強中心の生活は必須だったが、大切な何かを犠牲にして生きているような不充足感が心のどこかにあった。多くの芸術作品に触れる歓喜や、恋愛の熱情がもたらす果実に比べると、多感な年頃に、机に向かい勉強に明け暮れるのが、無味乾燥に思える日もあった。

 コーヒーを飲みながら、考え事をしていると客数が増えて満席になっていた。少年はコーヒーのおかわりをもらいにテーブルを離れた。店の中には、若いカップルの姿が目についた。

 カップルは肩を寄せ合い、言葉を交わすたびに明るい笑い声が弾んでいた。将来、明日香のような女性と、一つの道を二人で分かち合うのに、学問の道は最適だろうか――と、少年は首を傾げながら、自問自答した。

 教師の言いなりになり勉強する姿勢で、地位や立場を良くする者ばかりの世界なら、どこか歪で不健全な空気で世界が淀むのは当然でもあった。少年は無目的に、勉強のための勉強に邁進したくはなかった。進学が次の研究につながり、世界の何かの役に立つ実感を求めて喘いでいた。

 勉強机の上に置いてある、浩平に貰った少女のフィギュアを見ていると、明日香の姿かたちを脳裏に浮かべた。さらに、少女から、大人の女へと脱皮しつつある明日香と、永遠に歳を取らないフィギュアの少女を頭の中で見比べた。すると、内側にある人間的な欲求が、明日香の生々しい毛髪や、肌色の素顔を愛おしく思わせていた。

生身の明日香と比べると、フィギュアの少女は無機質で全体から醸し出すムードが滑稽に見えた。作り物の愛らしさと、内側から滲み出るものとでは格が違う――と思った。

 肌の温もりは、代謝によって食物の栄養が熱エネルギーに変換される生理現象だ。恒温動物の人間は、誰でも触れると温かい存在に違いないものの、明日香の温かみは彼女の優しさから出てくる特別なエネルギーだ――と、少年は思いたかった。

――会いたい、もう一度会って、お互いを理解しあいたい――激しくて、強い熱情が押し寄せると、少年は胸が苦しくなっていた。だが、再会を希望して謝絶されるダメージを思うと、たちまち恐ろしくなり、言葉にはできなかった。

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