第10話


 高校二年生の明日香は、同い年ながら眩いばかりに魅力的に見えた。少年は明日香の黒目勝ちの目が、自分を見ているのに気づくと、鼓動が激しくなるのを実感した。反動で、自分から親しげに話しかけるのが物憂く思える日もあった。

 時折、明日香に誘われて図書館の自習室で一緒に勉強した。一学年上級生の明日香が、どんどん先を進み、希望の大学に合格すると、見向きもされなくならないかと、少年は胸の内で案じていた。

 高校に入学後も、明日香はいつでも目をまっすぐに向けて見つめた。眼差しは、少年に対する信頼と愛情に満ちていた。

「中学生の頃は、勉強では一度も雄大君には勝てなかった」明日香は、率直な言葉で、少年への尊敬の気持ちが揺るぎないのを告げた。

 少年は、明日香に誘われて家に遊びに行った。明日香の家の前に着きチャイムを鳴らすと、彼女が応答した。「ちょっと待ってね」とインターフォンから明るい声が聞こえた。

 二分後に目の前に現れた明日香は、薄着をしていたので、体のラインが浮き出ているのに気づくと、少年はドギマギした。明日香の雰囲気は、中学生の頃に比べると、随分と大人びたものになっていた。

 セーラー服姿と異なり、普段着の明日香はそれほど洗練された装いに身を包んでいるとは思えなかった。外貌の美しさに加え、内面は家族の豊かな愛情によって形成されていた。子どもっぽい明朗快活さも、この家にいて育まれたと、少年には直感で理解できた。

 門扉から玄関にたどり着く前、グリル・シャッター越しに車庫に駐車中のアウディが目についた。車庫にはもう一台分のスペースがあった。少年には、家や庭の様子がこの家の住人のセンスの良さと、豊かな暮らし向きを証拠づけているかに見えた。

 家の中は、玄関から応接間まで広々としていた。少年の目にも、家具調度品や、玄関の近くの壁に掛けられた絵画が、値打ち物であるのは判断できた。――自分も、こんな家に家族を住ませたい――という願望が、明日香の住む家を堂々たる邸宅に見せていた。

「かけて良いよ」戸惑う様子を見て明日香が促した。「大丈夫よ。ゆっくりしていって」

「ありがとう」

「今日は皆、出かけているから大丈夫よ」と、明日香はコップを二つテーブルに並べると、冷蔵庫からアップル・ジュースを取り出して注ぎ込んだ。

「喉が渇いているでしょ?」

「本当を言うと……」少年は、明日香を見ると少し間をおいて

「工場で働いているときも、明日香のことを考えなかった日はなかった」と打ち明けた。

「私も、同じなの。山登りして以来、私たちは、ある意味で戦友なのよ。一緒に、苦しみを経験し耐え抜いたでしょ?」

 明日香と同じ部屋にいると、胸の鼓動は驚くほど速くなるのを実感する日もあった。薄桃色の唇から、様々な言葉が出てくるのを不思議な気分で眺めていた。

 グラスの中のジュースが空になり、溶けて小さくなった氷だけが残っていた。

「大学に進んでも友だちでいような」

「雄大君」と明日香は答えた。「そうだといいね」

「じゃあ、勉強も頑張らないと」少年はグラスに僅かに残っている氷水をグイっと飲み干した。

「お代わりを入れようか?」

「ジュースのお代わりって、聞いたことがない。まるで、レストランの飲み放題のソフト・ドリンクだ」

「お客様、お食事は何になさいますか?」

「食事は頼んでいないよ。美人で慌て者のウエイトレスさん」

「美人? そんな風に褒めてもらったのは初めて」明日香の表情が明るくなった。

「僕は慌て者の枕詞に――美人――を使っただけだ」

「褒められるのは悪い気がしない」

「僕はむしろ、けなしていたかも」

「もおう」明日香は、頬を膨らませた。

「冗談だよ」

 少年は、アルバイトのローテーションで土日のいずれかが休みになると、明日香を誘って食事をしたり、映画を見たり、時には美術館に絵画を鑑賞に出かけた。少年はアクション映画が見たかったが、明日香はラブ・ストーリーやファンタジーを好んでいたので、意見が一致しなかった。たいていは、少年が譲歩して明日香の希望の映画を視聴した。

 ラブ・ストーリーで男女が口づけを交す場面を見ていると、明日香は肩を寄せ、右手を握りしめてきた。そんなときは、頬が火照るのを感じ、気恥ずかしくなった。

少年は明日香と、一緒にいると自分を偽らずに心を丸裸にできる気がしていた。二人で見つめ合い、優しげな視線を感じると、彼女の柔らかな心の襞に触れてみたくなった。反面、明日香とデートを重ねるのは、内心で勉強や仕事をさぼっているイメージがつき纏っていた。

 二つの思惑の間で葛藤したあとは、決まって睡眠時間を減らし、勉強のための時間を捻出していた。

       ※

 教室の壁に、科目ごとに成績表が張り出された。少年は改めて、自分の学力を知った。何度見ても、物理を除く主力科目の成績が、クラスの中位の順位で表示されていた。彼はクラスメイトの学力水準の高さに驚かされていた。

 成績表の掲示は、毒々しく感じられたが、合格か不合格かで決まるゼロ・サム・ゲームを制して志望大学に進むための目安にはなった。

 物理は満点なので、成績表の最上位に――蒲原雄大――の名前があった。逆に、世界史の点数が悪く、下位に氏名が沈んでいた。少年は、年号を機械的に丸暗記するのが億劫に思えていた。

「物理でお前が満点だとは、思わなかったよ。それに、世界史は平均点より下だとは、偏り過ぎじゃないか」征矢は少年を見て、小馬鹿にしたように何度も首を傾げた。

「暗記科目は、クイズと覚える要領は同じだ。雄大は歴史が苦手なのか? すべての事象は、過去の歴史を土台にして成り立っている。世界史が苦手な秀才なんて、社会に出てから馬鹿にされる」と、修二も同調した。

「要するに、これを目安にして受験当日にピークを持ってくればいい。学年の成績順位なんかはどうでもいい」征矢は誇らしげに掲示板を指差しながら周りに目を配った。

 三人の間に、割り込んできた庸蔵は

「この高校で平均点をとれる実力があれば、中堅クラスの大学ならどこでも受かる」と、自説を開陳し

「人生は長い。気にしない気にしない」と、少年を宥めた。

 美土里は庸蔵を評して「楠本君と付き合うと、学習意欲が減退する。目標設定が低すぎるし、悪影響を受けるだけよ」と、たびたび忠告してきた。

 庸蔵と学生食堂で、ランチを食べていると省吾が

「ここ座っていいかな」と、隣に腰かけた。

「中学時代の知り合いだ」と、少年は庸蔵に紹介した。

 食堂で省吾が隣の席に座ると、少年は成績の伸び悩みについて相談した。

 省吾は質問には答えず、眼鏡の奥の目を光らせると「高校のトップ校に入学するのは簡単でも、国内一の大学に合格するのは、簡単じゃない。中学では、雄大の後塵を拝したけど、今度は負けないよ」と告げた。

 少年には、省吾の決意表明というよりも、宣戦布告に聞こえていた。明日香も省吾も、他の生徒たちと同様に進学塾に通っていた。少年だけが、相変わらず自学自習を続けていた。

「俺は、お前らと比べると、気楽だな」

 庸蔵は「勉強している時間があれば、俺は読書で知力を鍛え、スポーツ・ジムで汗を流し、女の子を口説いている。青春の美しい時間を机の上で過ごせるか?」と、嘯いた。

「少年の抱く大志には、少年らしさがないといけない。庸蔵は、僕よりも大人だな。僕は大学生になってから、そうするよ」

「だいたい、秀才と呼ばれる連中は、いくつの何を覚えているか――という、記憶ばかりを競い合う。本当に大事なのは、記憶よりも創造性なのになあ。雄大も、勉強馬鹿にだけはならないでくれ」

「そんな調子で、電力会社に就職できるのか?」

「大丈夫、大丈夫。先のことは心配しない。今日一日を存分に生きないと、人間の器が小さくなる。それで進学も、就職もできないのなら選ぶ側の落ち度だよ」

「気楽だな」

「俺は人間の器が大きい。伸び伸びしているだけだ。さっきのあいつみたいに、こせこせと生きたくない」

 庸蔵の強弁は極論に聞こえつつも、反面の真実を内包していた。クラスメイトの中にも、部活に汗を流し文学書を多読しつつも、成績の良い生徒や多芸多才な生徒は存在していたが、少年にはアルバイトの時間がのしかかり、同じ時間配分で行動できない弱みがあった。それが、少年には知られてはいけない弱点のように感じられていた。

 知力が世界を救うのなら――世界はとうの昔に、天才たちの知力によってパラダイスになっていても不思議ではない――そう思うと、あながち庸蔵の言い草を嘘とは言い切れなかった。

 少年が側聞した話では、高校入学の試験の成績では、首席で合格したのは修二でも美土里でもなく、庸蔵だ――という。真偽は確かめられなかったものの、少年には、庸蔵の人となりが理解できなくなった。

       ※

 暴力の被害で、進学が一年遅れになった事実を少年は、周囲の誰にも伝えていなかった。同じ中学から進学した他の生徒たちも、申し合わせて悪評を広めなかった。

 だが、どこからどう伝わったのか、風評が事実よりも悪く伝わった。――高校受験を浪人したのは、蒲原雄大が非行少年だったからだ――と書いた怪文書まで回覧されていた。

 高校でのいじめは、悪口や暴力よりも陰湿だった。――蒲原雄大の不純異性交遊のお相手は本校の女子生徒だ――と、記述されたものまで出回った。

 暴力事件の被害の余波は長く残り、拳で痛めつけられた以上の苦痛を少年に与えていた。閉じていた傷口は、再びこじ開けられると、薄汚れた手で弄られる展開となった。

 誰から、何度非難されても、明日香を守るため少年は口を噤み続けた。次第にクラスメイトたちは、少年を避けるようになり、必要最低限の連絡事項以外では、口を利かなくなった。

「雄大さんは、そもそも私たちとは違うからね」と、旅行研究部で親しかった美土里まで敬遠し、敬語でよそよそしく接するようになった。

 庸蔵だけは、独自のスタンスで「俺は中堅クラスの大学を目指し、会社員になるつもりだから、お前を見下しはしない。それに雄大は三月生まれだろ、俺は四月だから年齢差はないに等しい」と告げると、楽しそうに笑った。

 少年には、庸蔵の素直さと、打算的でないところが気楽だった。庸蔵の主張する人間の大きさとは、あくせくしないで、のんびり構える姿勢――にあり、たいていの高校生とは真逆のスタンスをとっていた。彼といると、計算高い人間と一緒にいる緊張感も警戒心も無用だった。

 征矢や修二は「雄大と仲良くなっても、得るものはない。俺たちとは、異人種のように思えるよ」と、露骨に話しながら傍らを通り過ぎた。誰も暴力を振るわなかったものの、教室は陰湿な空気に支配されていた。

 チャッピーを連れて散歩に出ると、老犬は力なく尻尾を振り、時折立ち止まって顔を見上げた。

 最近になって、チャッピーは食欲がなくなり水ばかり飲んでいた。いつもより餌をよく食べたので、少年はチャッピーを外に連れ出した。

 様子がおかしいので動物病院に行って検査した結果、ドクターは

「腎臓病に罹っています。余命は一から二ヶ月と思われます。チャッピー君は、他の犬よりも長生ですよ。残りの時間を家族で大切にしてあげてください」と告げた。

病院についてきていた凛咲は、首をうなだれて診察室の床を見つめていた。

 少年は愕然とした。犬にも寿命があるのを失念するほど、他の事に力を入れていた自分を責めたくなっていた。それから、一ヶ月チャッピーは、勉強部屋に来ると、少年の足元に居て様子を見ていた。頭を撫でると、弱弱しく尻尾を振る仕草が健気に思えた。

 ある日、少年が心の支えにしていたチャッピーが息を引き取った。チャッピーは、言いつけを守る利口な犬だった。父親が存命中にペット・ショップで購入したときは、生後半年ぐらいの子犬だった。

 利口な犬なので、たいていの約束事は覚え、公園でフリスビーを投げて取りに行かせると、矢のように素早く走り出しては、口に咥えて戻り、褒められると尻尾を振り続けていた姿を思い出した。

 凛咲は、めそめそと泣き続けていた。

 対照的に、母親は「動物にも寿命はあるから、仕方がないでしょ。いつまでもクヨクヨしていても仕方がない」と、やんわりと凛咲を叱った。

 少年にとってチャッピーは、肉体を持つ身近な生き物で、愛情豊かな存在だった。少年は、糞尿で汚れた犬小屋の清掃を厭わずに手掛けていた。もっと言うと、この犬の存在が、人間に対して不浄なイメージを喚起するのを未然に防いでくれていた。

 犬との触れ合いが、心の平衡を維持させ、人間を汗と涙と糞尿を垂れ流すだけの愚かで惨めな存在に見せなくするだけではなく、心豊かにしてくれた。

 少年と家族には、チャッピーは数多くの思い出の詰まった宝箱でもあった。チャッピーを失った喪失感は、家族を気鬱なものにしていた。

「悲しい一日だったね」

「そんな顔しないでくれ」

「どんな?」

「今みたいな顔」

「……」凛咲は、ぎこちなく笑って見せた。

「気を晴らそう。精進落としするために、外食しょう」

 家族三人で和食レストランへ行った。懐石料理は高価だったが、母親は意見に賛成し、三人だけの食事会を催した。

「良い犬だった」

「愛嬌があって、賢かったね」

「私は、チャッピーが人間の言葉を理解しているのではないかと思ったことが何度もある」

「お父さんが亡くなった時は、まだ子犬だったチャッピーの元気がなくなって、食欲も落ちていた。分かるのね。人間の気持ちが……」

       

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