シカゴの弁護士

 当時のアメリカというところは今ほどの世界に冠たる覇権国ではないがそれでも既に大いなる経済的発展を遂げており、より重要なことには世界各地から多くの移民を受け入れている時代だった。ロシアの革命家クラスノシチョコフの亡命は合衆国にとって重視するほどのことではなく、彼は歓迎もされないがかといって格別邪険にされもせず、よくある東欧系のユダヤ人移民として十把一絡げの扱いを受けた。


 クラスノシチョコフはアメリカでは変名を使った。アブラハム・トビンソン。アブラハムは本名を英語風に読んだもので、トビンソンという英語風の偽名は母親がトイバという名前だったからそれにあやかって付けたのである。彼のこの名について、単にアメリカ社会に適合するためだったという解釈もあればロシアの密偵の追跡を逃れるためだったという説もあるのだが、まあその双方の意図が込められていたと理解するのが妥当なところではなかろうか。


 縫製工としてかろうじて生計を立てながら、彼は猛烈な勢いで英語を学び、また現地のロシア系活動家たちのグループに加わって社会主義者としての活動も継続した。アメリカに住み着いて半年目、彼は労働組合の新聞に英語で記事を載せた。ペンネームは「放浪者ストローラー」。遠く東欧から流れてきた、そしてユダヤ人である自分のアイデンティティを自嘲したものであろうか。もっとも、このストローラーというあだ名を彼に付けたのは彼のガールフレンド、のちに妻となる女性であったという説もある。ゲルトルーダ・ボリソブナ・クライン、ワルシャワの貧しいユダヤ人家庭に生まれた、彼女もまたアメリカに漂着した放浪者の身の上であった。クラスノシチョコフよりも九歳年下で、社会主義活動の一環として移民の集まりの中で社会科学と経済学の講師をやっていた彼の教え子として知り合った。


 クラスノシチョコフは残っている写真を見れば分かるのだが背が高く、いかにもスマートなインテリの美青年といった風貌である。ゲルトルーダはたちまち彼に夢中になった。1907年、二人はニューヨークで結婚した。


 努力家でもあるクラスノシチョコフは独学でアメリカの大学入学資格試験を通り、シカゴ大学に籍を置いて通信教育を受講、まもなく妻を連れてシカゴに移った。当時のシカゴは移民を集めて膨れ上がる人種のるつぼで、特に東欧系ユダヤ人の移住者が多く集まる場所でもあった。仕事は豊富だったが、労働条件は悪かった。クラスノシチョコフは志を立て、法律学校の夜間部に入った。そんな中で最初の子供である娘のルエッラが生まれ、生活は苦しかったが、また希望に満ちていた。法律学校を出た彼は、イリノイ州の弁護士資格を取得することに成功した。1912年12月になっていた。


 彼は労働者のための弁護士としてシカゴで活動を始めた。多くの労働事件を処理し、あるコックが銀行家を毒殺したとされた事件では首尾よく被告の無罪を勝ち取っている。敏腕であった。1914年初頭、二人目の子供が生まれた。


 さて、その年の6月に、サラエボ事件が起こる。詳述すると別の話になってしまうので説明しないが、つまり第一次世界大戦が始まったのである。


 ロシアの立場だけは書いておこう。ロシアは英国、フランスとともに連合国として参戦した。祖国が鉄火場に陥っていく中、しかしクラスノシチョコフの暮らし向きはだいぶ楽になり始めていた。この頃弁護士として成功し、法律学校で教鞭をとるようにもなって、畑付きの家に住めるまでになっていたのである。なおアメリカの第一次大戦参戦はだいぶ後、ロシアで革命が起こってからの話になる。


 1915年、シカゴのヘブライ学校で騒動があり、500人ほどの学生と教員全員が新たな労働者学校を興すことになった。クラスノシチョコフはここに新任の校長として招かれた。校舎を借り、カリキュラムを組み、労働組合などから多くの支援を集め、彼の労働者学校は無事に開校した。そこがどんな雰囲気の学校であったか、当時を知る人の証言が残っている。


「トビンソン校長のもとに開かれたものは真の労働者のための文化センターだった。友好と寛容、そして協力の雰囲気のもと、政治や労働、経済や哲学について、自由主義者も社会主義者も、アナキストも組合員も、自由に意見を言うことができた」


 このままであったら、放浪者トビンソン氏はアメリカに根を下ろし、アメリカの左翼活動家として平和な生涯を送ることができたのかもしれない。しかし、やがて彼の運命が彼のもとを訪れた。


 即ち。1917年3月、ロシアで革命が勃発。ロマノフ王朝が打倒されたのである。


 ロシアからの移民たちは、アメリカにあってこの報を告げる号外の新聞に熱狂した。今後、ロシアはどうなるのか。人々は夜を徹して語り合った。だが、トビンソン氏、いなクラスノシチョコフは冷静であった。


「まだ終わってはいない。これからだ。これから始まるんだ。ロシア人民が自由を勝ち取るまでに、まだ多くの血が流されることになるだろう。われわれは、まだ祝うには早いのだ。われわれは、革命を支援しなければならないのだ」


 そうしてクラスノシチョコフは、その日のうちに第二の故国アメリカに別れを告げ、ロシアへと戻るための準備を始めた。

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