生い立ち
日本ではあまり知られていない話だが、原子力発電所の存在で有名なウクライナのチェルノブイリというところは古くからユダヤ人が多く暮らしていた土地である。クラスノシチョコフは1880年10月10日、この地のユダヤ人集落に生を受けた。その出自についてさほど詳しいことは分かっていないが、初名はアブラム・モイセエビッチ・クラスノショークと言ったらしい。彼がいつ名を改めたのかはよく分からないが、この時代の革命家が自ら名前を変えることは特に珍しいことではなかった。
わずかな手掛かりによれば父は信心深いユダヤ商人であり、兄弟は多かった。つまりは平均的なユダヤ人の中流家庭に生まれついたわけである。平均的なユダヤ人家庭らしく彼も早くから手厚い教育を受け、そして幼少期から神童と言うべき才を示し、1895年、大学進学のために今はウクライナの首都キーウとして知られる東欧の古都キエフに出た。
しかし、キエフで彼を熱狂させたものは学問ではなく、社会主義の運動であった。ロシア革命を先に控えたこの時代、既にロシアの知識階層はマルクスとその思想に深く影響されていたのである。クラスノシチョコフを最初に感化させたのは、彼が大学進学のために頼んだ家庭教師で、キエフ大学の学生だったモイセイ・ウリツキーというユダヤ人であった。
彼はまもなく社会主義の非合法運動に身を投じ、のちのロシア共産党の前身となるロシア社会民主労働党にも早くから参加していた。当時、ロシア帝国は社会主義運動を厳しく弾圧しており、その指導者の多くは流刑になったり、国外に逃亡して活動を行うなどしていた。クラスノシチョコフもまもなくその存在を帝国の秘密警察に知られるようになり、1898年、初めての逮捕を経験することになる。半年後、黒海沿岸のニコラエフに流刑となり、公安の厳しい監視下に置かれた。
だがクラスノシチョコフは懲りずに地下で組織活動を続けた。当時のこの地方の社会運動の指導者はレフ・トロツキーであった。いつ頃トロツキーの知遇を得たのかは分からないが、クラスノシチョコフはその指導のもとで大きな影響を受け、そしてまもなくトロツキーが逮捕された際にはこの地の指導者の地位を引き継いでいる。
1899年の春頃、クラスノシチョコフはニコラエフを逃亡、ポルタヴァ市に移って、のちにメンシェビキの指導者として知られることになるユーリー・マルトフのグループに加わった。1900年、マルトフの息のかかったクラスノシチョコフはキエフに戻って地下活動を展開、機関誌の発行や街頭デモの組織に功績を残したが、それが祟って再び逮捕されることになる。
九カ月で釈放されるにはされたが、政治犯として二つの前科がついた彼にとって、ロシア国内でこれ以上活動を続けることはあまりにも危険であった。当時のロシアでは、そのような人物はいつ遠隔地への重い追放刑に処されても不思議はなかったのである。そこで、クラスノシチョコフは逃亡の道を選んだ。出発の直前に官憲に踏み込まれ、二階から飛び降りてそのまま逃走するという間一髪の逃亡劇を演じた後、レーニンが根拠地としていたベルリンに一時滞在して、さらにニューヨークに流れ着いた。1903年の3月になっていた。
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