シベリアにて

 ロシアを目指すクラスノシチョコフと彼の一家はシカゴからカナダに出て、バンクーバーから横浜行きの船に乗った。ニューヨークに戻って大西洋を横断する手段もあったし、実際同じ頃そうやってアメリカからロシアに戻った同郷人の例もあるのだが、彼はそのようにした。いかなる理由があったにせよ、結果からいえばこのことが彼の未来を決定付けることになる。


 ロシアの新政府が発給するビザを待たなければならなかったので、一家は横浜のホテルでしばしの時を過ごした。日本はのちにクラスノシチョコフにとって不倶戴天の敵となる国であるが、この時の滞在はまったくの観光気分であったようだ。路地に響く下駄の音に旅情を感じ、汽車に乗って東京見物にも出かけ、娘に日本人形を買い与えるなどしたという。


 さて、1917年8月15日、一行はウラジオストクに到着した。極東の窓と呼ばれるウラジオストクの町は、当時公称の人口が約20万人。実際にはもっと多かったらしいが、いずれにせよロシア系の住民は半分くらいで、中国・朝鮮・日本からの来住者が混在する、混沌と熱気に満ちた都市であった。


 革命直後のことで、当時のロシアの政情は混迷を深めていた。のちにソ連政権を打ち立てるレーニンの一派ボリシェビキは直訳すると「多数派」という意味だが、当時はまだ実際には多数派ではなかった。そのボリシェビキのウラジオストクでの窓口となっていたのはやはりアメリカからの帰国者であるネイブートというラトビア人、ニューヨークでアメリカ社会党の指導者をやっていた人物でクラスノシチョコフとも面識があった。ネイブートは彼を歓迎し、極東ではボリシェビキの人材が払底していることを告げ、精力的な活動家を求めている、ここで働いてほしい、と語った。クラスノシチョコフは言った。「革命家は自分が必要とされる場所で活動するものだ」。


 こうして、一家はクラスノシチョコフの故郷ウクライナには向かわず、ウラジオストクにそのまま住み着くことになった。革命家クラスノシチョコフは、この地でたちまちのうちに頭角を現した。ある集会においてボリシェビキ代表として演説、鮮やかな弁舌をもって聴衆を熱狂させ、ボリシェビキが提案していた決議案を採択させたのである。これが彼のボリシェビキの活動家としての最初のステップとなった。


 12月25日、第三回となる極東ソビエト大会がハバロフスクで開かれたとき、その議長を務めたのはクラスノシチョコフであった。大会は極東全域でソビエト権力を樹立することを宣言し、その首府をハバロフスクに置くと定めた。この地で文字通り多数派となったボリシェビキは極東人民委員会議を設置、その指導者に選ばれたのもクラスノシチョコフであった。明けて1918年1月12日、彼は大会の閉幕をこのような演説で締めくくった。


「勤労によって作られたものは、労働者に帰せられなければならない――ここは富める地域である。真の革命運動はこの富を、人民の、人民による、人民のためのものとするであろう」


 もちろん言うまでもなく、これはリンカーンのゲティスバーグ演説の模倣と言うべきものである。良くも悪くもアメリカ帰りのインテリであるクラスノシチョコフの彼らしい気風が、ここには現れている。


 さて、こうしてクラスノシチョコフはボルシェビキ政権における極東地域の指導者となった。だが、安穏と執務室に詰めてデスクワークをして暮らしていられるような状況ではまったくなかった。革命後の混乱はいまだ冷めやらず、旧帝国に忠誠を誓う白軍や、革命政権の転覆を狙う諸外国の勢力が跋扈しており、その中で最も執拗なのは朝鮮半島を既に併合し大陸へのさらなる足掛かりを虎視眈々と狙う日本であった。


 指導者クラスノシチョコフのスタイルは良く言えば現場主義、はっきり言えば命知らずの無鉄砲であった。ブラゴベシチェンスクという中国国境沿いの商業都市があり、中国、ボリシェビキ、現地の武装勢力の間で係争地になっていた。日本も情報将校を送り込み、ボリシェビキの力を削ぐべく暗躍していた。その土地に、周囲の人々が止めるのも聞かずにクラスノシチョコフは乗り込んでいき、捕囚の憂き目を見た。義勇軍を自称する日本のスパイたちは市当局にクラスノシチョコフの処刑を求めた。間一髪の状況であったが、結局ボリシェビキの勢力が戦闘の末に市庁舎を制圧、クラスノシチョコフの救出を果たした。しかしこのブラゴベシチェンスク三月事件一つをとっても、クラスノシチョコフの政治家としての危うさを見て取ることができよう。


 その後、白軍と赤軍の内戦は激化していく。ウラジオストクではチェコスロバキア軍団を名乗る白軍の一派がクーデタを組織、要塞を攻め落としてボリシェビキの拠点を壊滅へと追い込んだ。さらに8月、日本がシベリア出兵を開始。9月頭にはハバロフスクが陥落する事態に陥った。クラスノシチョコフは日本軍に一万円の懸賞金をかけられ、シベリア各地を点々と逃走して回った。


 1919年5月には白軍に捕縛されたが、彼の身元は発覚せず、一介の赤軍兵として監獄に送られた。しかしそこで彼が得たものは絶望ではなく、白軍は既に窮状に陥っており生き残りさえすれば革命の舞台に復帰できるという確信であった。12月30日、監獄のあったイルクーツクから白軍が一掃され、クラスノシチョコフはまた自由の身となった。


 その頃、レーニンとトロツキーの率いるモスクワの革命政府はクラスノシチョコフとともに一つの計画を練っていた。日本が掲げているシベリア出兵の目的の一つに対ソ連緩衝国家の樹立というものがあったので、いっそこちらの手で極東に緩衝国家を建ててしまい、日本の目的を挫こうというのである。一つには当時のソビエトが弱体であり、ヨーロッパに多くの敵を抱えるなか東西に戦線を持つことを望まず、日本とは早期停戦を狙っていたからであった。


 はじめこの緩衝国家の中枢はイルクーツクに置かれる予定であった。だが、提案が可決された直後、イルクーツクは白軍によって陥落した。クラスノシチョコフはそれでもめげずに工作を続け、極東に樹立される緩衝国家の全権を党中央から預かることに成功した。現地極東ではそもそも緩衝国家構想そのものに反対する声が根強かったが、クラスノシチョコフはこの際どこでもいいから早期に極東政権を樹立したかった。そこで選ばれたのがベルフネウディンスク、現在はウラン・ウデと呼ばれている都市である。バイカル湖に注ぐセレンガ川のほとり、モンゴルとの交通の要衝にあり、ザバイカル地方の商業の中心地として知られていた。


 そして1920年4月6日、クラスノシチョコフ率いるザバイカル地方勤労者大会は極東共和国の設立を全会一致で議決。クラスノシチョコフを首班とする政権がここに樹立された。同国ははじめに、五つのことを宣言した。


一、当国は独立した共和国である。

二、民主制を採用する。

三、速やかに臨時政府を樹立、憲法制定を準備する。

四、反乱軍の兵士たちには投降を呼びかける。

五、諸国との善隣外交を求めるものである。


 こうして、極東共和国の短い歴史は開始されたのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る