第8話 『パプリカ』な分裂する主格

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 こんにちは。ようこそお越しいただきました。

 ここはダラダラと映画のイメージを述べていくエッセイです。大抵映画の感想ですらない。


 さて、だらだら映画エッセイ流れ第8弾は『今敏』です。

 今回のリクエスト内容は「クリスマスだから『東京ゴッドファーザーズ』」。リクもらったのがちょうどクリスマスだったんだけど、年越えたから『パプリカ』メインにしようかなと(なお、この記事を書いたのはR3の正月です)。

 今回の奴はあんまり纏まってない。つまり基本的に今回は恥ずかしげもなくまるっとポエム感がある。

 今敏監督は既に若くして亡くなられていて、本当に亡くなった時はとても悲しく、今も追随を許さないレベルの素晴らしいアニメ監督だと思っている。

 『PERFECT BLUE』、『先年女優』、『東京ゴッドファーザーズ』、『パプリカ』は見た。アニメ映画は全部見たけど、『妄想代理人』は見てない。

 それでいつも通り見直して書いているわけではないので、ひょっとしたら記憶違いとか間違っているところもあるかもしれない。その時は是非ご指摘ください。よろよろ。


 さて。タイトルを『パプリカ』にしたけど、今敏監督が描くどの作品も共通したテーマを感じる。それは『自分』っていうものの捉え方だと思う。小説風にいうと主格。

 これには結構色々な意味合いがあって、たとえば『PERFECT BLUE』だと主人公は元アイドルで現女優の『現在の自分』『過去のアイドルだった時の自分』『ファンに理想化された自分』『自分がなりたかった自分』というものが複雑に絡み合っていく作品だ。『千年女優』はもっとわかりやすくい。主人公の『現在の自分』『それぞれの映画の過去の自分』『それぞれの映画を見た人が認識する自分』『未来の自分』が時間を超えて1つの流れを作っている。

『東京ゴッドファーザーズ』は3人+1人が1人の赤ちゃんを拾うことでそれぞれの過去に回帰して、クリスマスの夜に『現在の自分』を肯定して『未来の自分』を見つめる話だと思う(多分。

 それで『パプリカ』は少し毛色が変わってはいるけど、『敦子』は『夢探偵パプリカ』として様々な夢の中に『それぞれにふさわしいパプリカである自分』として登場する。でも多分、『パプリカ』の映画が想定している主格はおそらくパプリカ自身じゃなくて登場人物である粉川で、そこから『映画館で映画を見ている観客自身の自分』を描いているんじゃないかなと思わなくもない。

 だからまあタイトルを『パプリカ』にした。


 ここまでは前置き。

 つまるところ、今敏監督は様々な角度で1つの魂を描いている。そりゃあもう執拗に、変質的に、狂気的に、魂というのは見方によって異なるってことをグラグラグラグラとリフレインさせて脳裏に刷り込んでいく。


1.夢と現

 とりあえず『パプリカ』に寄せて書いてみようと思ったけど、このページは丸々根拠はない。いや、他の記事に根拠があったかというと悩ましいところだけれど、なにせこれは『イメージ』的な話なので。


 『夢』という単語には2つの意味がある。

 1つ目は夜に見る夢。夢には自分の願望が出るとか聞くこともあるし、海馬が記憶を整理する働きの一部だと聞いたこともある。そんな話はさておいて、夢というのはたいてい荒唐無稽なものだ。その中で主観的には理性的と思っても後から考えればおかしな行動をとっていたり、普通であればとらないような行動をとる。

 2つ目は想像としての夢。小さかった頃になりたかったものとか、ひょっとしたら現実的になれたかもしれないけれど色々な理由であきらめたものや、様々な意味街がある。そもそも荒唐無稽でなれなかったものもあるかもしれないが、だいたいは様々な要因で現実化しなかったものだ。この意味の夢の語源は『夜寝た時の夢のようだ』という話もあるけれども、とりあえず共通するのは『荒唐無稽なもの』と捉えられがちなことだ。


 この2つの夢は英語でも日本語でも同じ単語が当てられる。

 けれども夢が『荒唐無稽』であるというのは誰が決めたのか。

 今敏監督は多分、その境目を取り外すのがとてもうまい。特に『パプリカ』の中ではいつのまにか夢と現実が入り混じり、どちらがどちらかわからなくなる。その手法がなかなかに凄いのだ。

 少し話はずれるけれど、胡蝶之夢の話に似ている。荘子が胡蝶になる夢を見て、起きた時に夢で胡蝶になったのか、胡蝶が夢をみて自分になったのかよくわからないや、という話だ。そもそも1番目の夢と現実は、1日の中で無意識的な入眠と意識的な起床を契機に切り替わるもので、そう考えると夢と現実は不確かに繋がっているともいえる。

 一方で、現実を夢だと思う人間は少ない。それは2つの理由があると思う。

 1つめが『現実感』だ。

 現実は当然ながら『圧倒的現実感』を持っている。だから現実を夢だと思う人はあまりいない。一方で夜に見る夢の中でもそれが夢と気が付くことはあまりないが、これは同じように、夢が自身にとって『圧倒的現実感』を持っているからだと思う。

 夢の中だと夢が現実であると感じるけれど、起きたらその大部分を忘れて『圧倒的現実感』に足りる情報が欠落するから夢であると思うのかもしれない。他方では夢の中では現実の情報が欠落するため、現実のことを思い出さないのかもしれない。とはいえこれは荒唐無稽な話ではある。

 2つめは『面白さ』。

 一般的に、現実は夢より面白くないしつまらないと認識されている。ようするに、非現実的で冒険に富んでいれば、現実ではないかもしれないという疑いを抱く。人はかくも混乱すべき精神を有している。ひょっとして物凄く恵まれていて楽しい人生を過ごしたら、現実が夢のように思えるのかも知れない。そんな不安定な感覚は恐怖っぽくて嫌だけれど、これが成功不安ってやつ?


 それで『パプリカ』はその辺の描き方というか混同のさせかたがとても美味い。ネタバレは避けるから詳しくはかかないけど、そういうのを言葉にせずに映像で表現したところが面白い。


2.シームレスな異世界転移

 でもそれじゃ話が進まないので世界の混同ぷりを書いてみる。今敏監督のとった手段は場面転換の圧倒的シームレスさとリアリティ。

 1つめの『現実感』。

 例えば『千年女優』は画面の中に次の画面のヒントを混ぜている。

 大人の主人公と子供の主人公、それから演技と過去が様々に入れ代わり交差するシーンがあるんだけど、同じシーンに存在する電柱を1本通過するごとに主体を切り替えたり、同じシーンの中で本来ありえないないものを混ぜてのシーンにつなげたり、2つの場面で異なる位相の登場人物に同じ動きをさせて混同させることで、多くの時間軸とか関係性に連続性を持たせている。

 次の世界が絵巻物的な明らかにフィクションじみた描写に繋がっていることもあるけれど、その世界に移行するために同じ構図と同じ表情をさせてから移動させたりと、いろいろな方法で混ぜているような気がする(見直しているわけじゃないから正確ではない)。本来全く異なる時間という概念を登場人物を共通させることでシームレスに飛び越えさせる。これは正直革新的な手法に思うのだ。

 そういう仕組が様々なパターンで組み合わされているので、一瞬でシーンが切り替わっても不自然さがない。


 パプリカでも同様のパターンが多用されている。『千年女優』の主格と時間軸とは異なり、パプリカは夢という世界を1つ1つジャンプしていく。そしてその場面転換は早くて多すぎる。予告編が一番顕著で、1秒で1シーン変わってる勢い。そこが夢っぽさを醸し出しているところなんだけど、その転換の速さを絶妙に調節していて、例えばゆっくりと進む夢では余計に現実との差を認識することが困難になるんじゃないかと思ってる。


 2つめの『面白さ』。

 それはパプリカでいうとディティールの細かさという面で現れる。

 パプリカの一番有名なシーンは百鬼夜行的な色々なものがパレードするところだと思うけど、これは明らかに『夢』なのにどこか現実的。何故かといえば色が豊かで書き込みが凄く細かい。そしてそこから退いた次の映像は、夢ではなくその夢をモニタリングするつまらなさそうな灰色の『現実』の敦子のシーンに移る。

 『夢』の中の圧倒的に明るくて細かいパレードのシーンと比べ、『現実』の暗いし書き込み、というか配置された物自体が少ないシーンの意味を考えてみる。この『夢』の中では圧倒的なビジュアル(?)が持つリアリティがあり、『現実』の人生では圧倒的につまらない(荒唐無稽でない)という心理的(?)なリアリティがある。この夢に対するリアリティという2つのバランスを上手く取ることによって、ふわふわと混乱した面白さがある。

 なお、パプリカでは常に書き込みが細かいわけでもなくて、現実と非現実が交差するシーンはその対比を結構大きく持たせていた記憶。だから夢と現実の現実感が逆転してる場面も多い。現実はだいたい薄暗くてつまらないんだよな。


3.様々な私と視点

 それでは次に自分というものを混ぜた作品、『PERFECT BLUE』にうつります。この映画は様々な角度で自分を混ぜている。

 現在の自分、過去の輝かしかった自分、現在は自分がなりたかった形なの? これでいいんだろうか、そのように悩む自分。この辺は割と誰でも思い当たるところがある部分でもある。

 これに加えて、他人が見た自分のイメージという視点が入ってきて、全てが混同していき自己とは何かがわからなくなるのが骨子。他人と自分の境目がどんどんシームレスになっていく。

 その先に待ち構える『自分』とは何か、というとても面白い主題の話、だと思っている。


 こっからは映画とは直接関係ないかもしれないが、この映画のテーマを考えてみる。

 そもそも他人が見た自分というのは自分と違うもので、これらはある意味当然のことだ。それでは何故他人が見た自分と本来の自分が違うのかは、自ら他人から見られるアバターだのペルソナだのを作っているからだ。これは意識的な場合と無意識的な場合があるけれど、ではその作られた自分は何故今の自分と違うのか。何故理想と違うのかというズレの話で、その隙間の拡大がテーマのような、気はする。つまりは自己に対して絶対的な何かを定めてしまうと、そことの乖離によって病んでしまいのだ

 けれどもこの前提の建て方自体がよいのか、というのは少し疑義がある。

 どれか1つの自分が正しいっていう考えは1つ以外は偽物という考えにつながる。つまりそのように自分がどのような存在かを定義し、自分と自分以外と分けていくと、許容性が著しく低下した、結末だ。

 けれどもこの感覚というものは自分が正しいとおもえるものはだいたい自分と乖離している。それに自分というものはおおよそ揺れ動き、そのような決め打ちできる恒常的なものじゃない。加えてやる気や気分、人間関係とか、複数の不確かなものの間を揺れ動く。だから決め打ちした以外が偽という前提自体が成り立たないのだ。

 だから本来は全てをあり得るものとして肯定するのが健康的ではないかと思うのだが、主人公はそこを一部否定してしまったからどんどん袋小路に入っていく話。


 そんなわけで今敏監督はいろいろな自分を混ぜていく。

 自分の外縁を不確かにしていくことによって、いろんな自分が存在し得、それを否定する。自分の中心を揺れ動かしていくこの作品は、基本的にはホラー的な観点で語られることは多いけど、1人の人物を多角的に描くというのはキュビズムっぽいし、最終的に全部をあり得るとしているところがとても好き。


 そして今敏監督の遺作は『オハヨウ』という1分の短編がある。

 これは女の人が朝起きる様子を描いているのだけど、主人公の女の人以外のディティールが異様に細かい。そして主人公はダブ付きながら、夢から覚めて1つの人格に統合されるのだ。短いけど、なんとなく集大成感を感じる。

 ネットを探せばあるかもしれない。短いしおすすめ。


 さて、今回も好き勝手描いたところで今日はこの辺で。

 次のリクエストは『猿の惑星』、当エッセイは常にリクエストを募集しております(見てなければリクエストに添えないすみません。)。

 See You Again★

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