ニュー・ジャックの秘密

 ◆◇◆◆◇◆◆◇◆◆◇◆



 時は遡る。


 霧煙る湿潤の五月、兼ねてよりシャーロックが「我が宿敵」と見定め、「犯罪界のナポレオン」と称していたある数学教授が一人深夜の郊外へ出かけるの見て尾行したシャーロックは、最終的に人里離れた山の中でその姿を見失った。頂上へ伸びる道は一本きり、それを外して歩くのは日中ならいざ知らず、日没後では無理である。どうして見失ったかは皆目見当付かなかった。



 もしも彼がロンドン中の悪党を束ね、その長として君臨することが出来た真の理由……その卓越した頭脳と冷徹さを支える、猛々しい獣の豪胆さにその時気付いていたなら――?



 混乱しつつ、轟々と荒ぶる滝を右手に見ながらの道を戻りかけたシャーロックの目に飛び込んだのは、赤く輝く満月の下を猛然と駆けて来る巨大な銀狼の姿だった。

 逃げだそうにも正面は行き止まり、為す術なく立ち尽くしていると、二、三十センチはあるような白牙が背後から肩に食い込んだ。噴き出す血に頬も髪も胸も濡れた。傷口には耳まで裂けた大口から白色に濁った唾が流れ込み、電撃のような痛みをもたらした。



 もしもその日、助手が出かける間際のシャーロックを呼び止めて、拳銃を持たせていなかったら――?



 瀕死の重傷を負いつつもシャーロックは気力で振り返り、銀狼の額に一発、後足の腿に七発、続けて弾を撃ち込んだ。そして風のように地に伏せ、迫る前足の凶暴な鉤爪の下を掻い潜った。

 銀狼は血を吐きながらシャーロックの鼻先でもんどり打って転がり、山も揺らがせるほどの咆哮を轟かせて崖下へ墜落した。しかし白泡沸き立つ水底へ呑み込まれるその一瞬、紛れもない人声で叫んだ。『おのれ、シャーロック!』と。


 

 もしもそれがただの空耳であったなら――?



 いや、過去に「もしも」はありえない。起こることは全て必然である。

 シャーロックの傷は不思議にも、その日の内に跡形もなく消え去った。翌日には現場からずっと下流の河原に変わり果てた姿の教授が打ち上げられた。

 それから三週間と少しが経ったある日の夜、最初のニュー・ジャック事件が勃発し、レストレード警部が221Bに捜査依頼のためやって来た。シャーロックは近頃見ない大事件だと興奮し勇んで現場に向かったが、捜査は想像した以上に進まない。付近の監視カメラは犯人どころか被害者の影も映さないという役立たずぶり、現場の残留物も死体以外には何一つなかったためだ。


『これだけ死体を転がしながら毛髪一本残さないとは、なかなか頭の回る犯人だな』


 シャーロックがこぼせばレストレードは笑った。


『マジそれな。俺は時々、お前が犯人なんじゃないかって思うくらいだよ』



 そして四週間後、二度目の殺人が行われた。だが有力な手がかりは挙がらず、また四週間が経つ。三度目の殺人も未然に防ぐことは出来なかった。


 ただ、その頃になってシャーロックは不可解なことに気付いた。普段から興味のないことや退屈だった時間の記憶は努めて脳内のメモリから消去している自分だったが、ニュー・ジャック事件の発生する夜の記憶だけは、反芻する前からまるごと失せていたのだ。


 大家や助手に聞くと『その日は早くからお休みでしたよ』という答えが返って来る。


『他に変わったことはなかったか?』

『そうですね、確か猛烈に眠いとおっしゃっていました』


 そんなことを言った記憶もない。

 そもそもシャーロックは鉄のように頑丈な男だ。不眠不休で研究や捜査に打ち込むことはあれど、睡魔に襲われてベッドに倒れ込むなどという軟弱な展開はこれまでなかった。

 ふと気になって寝室を探ると、いつも閉め切っているはずの窓の閂が外れていた。無理矢理こじ開けられたのでもなく、極めて自然に。窓の下の羽目板には数年分の埃が積もっていたが、ちょうどシャーロックの室内履きを一足キチンと並べて置いたような痕がくっきりと残っていた。


 これは一体何だ? 俺の仕業なのか? それなら何故記憶がないんだ?


 そして、四度目の「ニュー・ジャックの夜」が来る。

 シャーロックは朝から気を張って記憶を失うまいとしていたが、日没後間もなく世界がひっくり返るような酷い眩暈に襲われて床に倒れた。物音を聞きつけてやって来た助手や大家が悲鳴を――鼓膜も破れるようなソプラノを響かせるのを遠くに聞きながらシャーロックは尚も意識を手放すまいと頑張ったが、やがて何も分からなくなってしまった。


 それからどれほどの時が経ったのか。


 非常な肌寒さを感じて目を開けると、シャーロックは221Bの寝室ではなく、天井も所々抜け落ちた赤錆だらけの廃工に自分が横たわっていることに気付いた。身を起こして辺りを見回すと、嘘であって欲しいような光景が目に映る。シャーロックのよく知る指名手配中の犯罪者達が、明る過ぎる満月の光の下で血みどろになって転がっているのが。

 呆然とするシャーロックに全てを教えてくれたのは、そこへふらりと現れたヴァンパイアの男だった。


『初めまして、ニュー・・・ジャック・・・・、いやニュー・・・ウルフ君・・・・。今日は正気に戻るのが早かったみたいだね』



 ◆◇◆◆◇◆◆◇◆◆◇◆

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る