投げ込まれた火炎瓶

「おいおい、何だってこんなのを後生大事にしまい込んでいるんだ。燃やしちまおうよ」


 ロビンはシャーロックの手から新聞をもぎ取り、暖炉に放り投げた。今にも消えそうだった火種は餌を与えられて緩やかに蘇り、オレンジ色の舌がチロチロと紙面を舐め取って行くのが見える。


「気にするなって言っているだろう。連中は本当に何も分かっていないんだ。この件で君がどんなに苦労しているかなんて」

「だがお前はさっき、見た目が全てだと言っただろう。その通り、世間から見れば俺はただの能なしだ。落ちぶれた頼りのない奴だ。しかしニュー・ジャックには庶民を善行へ導く力がある」

「まあ神だって祀り上げてる連中もいるね」

「そうだ。その神を逮捕しかねない――いや例え自首しようと証拠がないんじゃ無理だが――警察や探偵には消えて欲しいと思うのが自然だろう」

「そうかも知れないけど、ニュー・ジャックがいるからって悩み事が全部消えるわけじゃないんだから、客足はその内戻るさ。そこまで気落ちする必要あるのかい? 別に痛くも痒くもないじゃないか」

「まあな。先週は火炎瓶を投げ込まれたが別に痛くも痒くもなかった」


 言いながらシャーロックは窓の下の黒ずんだ床を見る。まだ日が浅く、修理の手も間に合わないので現場は意図せず保存されていた。

 投げ込まれた火炎瓶は三、四本。思いのほか激しく燃えたのでフローリング材の一部が焼失し、床下のコンクリートが顔を出すありさまだった。しかし、焦って瓶を取り除こうとしたために両手に負った火傷の方は、もう跡形もなく回復している。


「うわ、前言撤回するね。やった奴らの名はリストアップしたかい」

「いや。大した被害はなかったからいい」

「そうかね、僕だったら絶対に思い知らせてやるんだけど」


 ロビンは少しの間、シャーロックには分からない古い言葉で悪態をついた。


「でも此処に住んでいる以上、君は家賃を払わなきゃいけないんだぜ。仕事がなくて大丈夫なのかい? いつもの警部に他の事件を回してもらったら? そいつで名誉挽回しよう」

「俺のせいで減給になったレストレードにか? 無理だ。あいつには家庭がある。上手くは行っていないようだが」

「でも、もうどれくらい大家さんに待ってもらってるんだっけ?」

「三ヶ月だ」

「……よく追い出されずに済んでるね」

「そりゃ、」


 シャーロックは一瞬言葉を詰まらせて、水滴滲む窓の外を凝視した。


「俺の助手と一緒にスイスへ旅行中だからな」

「何だって?」


 驚きに目を見開くロビンを見て、シャーロックは自嘲気味に笑う。笑い過ぎて咳き込む程に。


「どうりでこの間もその前も姿を見ないなと思ったけど、嘘でしょ、まさかこんな時に?」

「こんな時だからこそだ。火炎瓶騒動の後はあいつ宛てに、蓋を開けると毒針が飛び出すとんだびっくり箱が送られて来た。俺がその場にいなかったらまず間違いなく死んでいたな。だがそれで危険が去ったわけではないと散々言い含めたが男の癖に泣きまくり、どうしても聞かなかったんで、終いには薬で眠らせて船に積んだ。あと三年は帰って来ない。俺の兄が旅費含め何もかも手配してくれた」

「正しいと思うけど、ずいぶん無理矢理だね。彼らが帰ろうとしたらどうするんだ?」

「パスポートはあと三年、何があっても帰国を許さない状態にした。それに兄は政府機関の人間だからな、伝手で世界中にシークレット・サービスを派遣した。あの二人は何時でも何処でも大勢の人間に見守られている」

「見張られているの間違いだよねそれ」


 シャーロックは白い息を吐いた。

 二人を海外に追いやったのはロビンへの説明通り、「ニュー・ジャック」の過激な信望者達の手から逃がすためだったが、護衛をつけたのは他ならぬ自分のためだった。もし自制が利かず、無防備な彼らを追ってしまったら――それを考えると恐ろしかったのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る