探偵はもう要らない

 シャーロックは鼻をならし、埃にまみれたサイドテーブルのひしゃげた煙草の箱に手を伸ばした。湿気のせいか、ライターの点きは悪い。


「は、来たくない奴は来なければ良い。何であれ、俺は他人に媚びを売るのは嫌いだ。そんな暇もない」

「いや暇はあっただろう? あのね、シャーロック。致命傷を負わなきゃ死なないタフガイが無気力なんておかしいよ。――それとも貧血なのかい? 助手君の指示通りに輸血はちゃんとやっているだろうね?」


 ロビンは声のトーンを落としつつ、シャーロックの寝間着と化したスーツの皺を痛々しげに見た。掌でポンポンと叩きながらそれを伸ばそうと試みる。


「色々気の毒だとは思うけど、しっかりしなよ。依頼人が来てないのは今日だけじゃない、二ヶ月前からずっとじゃないか」

「まあな」


 シャーロックはとうとうライターを放り出し、予備のマッチは何処かとあちこちまさぐったが見つからず、苛立ちをつのらせてテーブルを蹴飛ばした。ガラガラと音を立てて物が転がり落ちる。中身のないインク壺を筆頭に、紙くず、拡大鏡、放置された封書の山、染みだらけのマグカップ。何ダースもの煙草の空箱。めくり忘れたカレンダー。そして日付が三月みつきも前の、読み古されたロンドン・タイムズ。

 バサリと床に広がったそれの一面には、見落とそうにも見落とせぬ太文字でこう書かれていた。



 “毎月恒例の猟奇的殺人 現代の切り裂きジャックか 手がかりは皆無”

 “捜査は難航 犯人未だ解明されず”

 “名探偵シャーロック・ホームズ その栄光は既に過去のもの”



 この頃ロンドンの話題の中心となっている猟奇的殺人事件の記事だった。

 その見出し通り、事件は毎月必ず一度か二度、ほぼ四週間ごとに発生している。ただし被害者は一人ではなく、必ず五~十数人以上が内蔵までえぐられた、いや、「食い散らかされた」と言う方が正しいような血みどろの惨殺死体となって発見されていた。ある時は廃工で、ある時は海中で。死体の中にはまだ頭部や胴体が見つかっていないものもある。

 

 シャーロックはいつものようにロンドン警視庁スコットランド・ヤードのレストレード警部に頼み込まれて捜査に参加したものの、成果を上げられずにいた。何しろ犯人はあまりにも手際が良い。現場には死体の他に手がかりになるような痕跡は何一つ残さないという徹底ぶりだ。

 犯人は一人か? チームなのか? 男なのか、女なのか? 年齢は? それすら謎のままだ。 




 ロビンは目を背けるようにさっさと新聞を集め、くしゃくしゃに丸めてしまった。


「君のその無気力さはこれが原因かい。世間の言うことなんか気にすることないのに」

「俺が気にしなくたって依頼人の方が気にするんだ」


 シャーロックは溜め息をついて、カウチのクッションの下からもう数部、比較的新しい日付の新聞を引っ張り出した。その見出しには先刻と同じ太文字が踊っている。



 “現代の切り裂きジャック 被害者に共通点 狙われるのは悪党ばかり”

 “これぞ究極の「攻める防犯」 ロンドンの犯罪発生率 大幅に減少”

 “今必要なのは名探偵より「ニュー・ジャック」 称賛の声多数”

 “ロンドン警視庁スコットランド・ヤード門前で「ニュー・ジャック」の捜査中止を求むデモ発生”



 最初の事件から数週間経って、警察はやっと被害者の身元を割り出すことが出来た。すると、驚くなかれ。彼らは皆、殺人や強盗、詐欺、恐喝、強姦罪などで指名手配中の(或いは証拠不十分で泣く泣く釈放した)悪党共だった。現代の切り裂きジャックはどうも、「世が裁けぬ悪を裁きます」とでも言うように相手を選んで犯行を重ねている。

 それを報道機関がセンセーショナルに書き立てて間もなく、ロンドンの犯罪発生率は大幅に低下した。人々は「ニュー・ジャック」を殺人犯というよりは英雄として見なし、自らも彼に「粛正」されぬよう行いを慎むようになったからだ。


「悪があるから善がある」

「彼は必要」


 そう言って四週間ごとの「ニュージャックの夜」は歓迎された。彼を止められないのでロンドン警視庁スコットランド・ヤード職員のムード&評判は日ごと悪くなったが、それに反比例するように街全体のムード&治安は良くなっていた。少なくとも「名探偵なんて要らない」と言われるくらいには。

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