第十一巻 ナワミサキ

 正直、俺は静かに暮らせればよかった。

 人間として生き、人間として死ねれば、紅音べにおとの約束を守ることができる。


『時成、絶対に人を傷つけちゃダメだし、殺すぞって脅すのもダメよ?』


 彼女は何度も言った。

 最初は聞き流していた。だが、何度も聞いているうちに、それを話している彼女の顔が普段と違うことに気づく。悲しそうな顔をしていた。

 ある日、紅音の背後にいた得体の知れない者が家に来た時、奴は彼女に覆いかぶさった。無性に腹が立ったから、仕返ししてやった。


『怪我させたらダメだって言ったじゃない』


 彼女は泣きそうな顔で俺を抱きしめた。


『もしあの人がやり返したらどうするの? 時成が死んじゃったら、私、二度と立ち直れないんだから』


 いつの間にか、俺の存在は彼女を支える存在になっていたらしい。

 泣き始めた彼女を抱き返すことができず、俺はただ安易な考えだったと後悔した。

 もう二度と得体の知れない者には、決して近づかないようにしていた——のに。




「どぅありべるべばぼなにゃにゅにょおおおおおお‼︎」


 ヨホロの言葉を聞きたくなくて走り出した。

 聞いてしまったら、答えなければならなくなるから、兎に角走った。

 それでもシャチであるヨホロに勝てるわけがないのだが。


『なぜ急に走り出す?』

「早く案内してやるから、さっさと俺を解放してくれ!」


 七人御先しちにんみさきという怪異の臭いは屋上からする。

 階段を登り続け、屋上に繋がる最後の階段までやって来た。

 しかし、人が入らないようにテープが貼られ、ドアの前には大きな荷物が沢山置かれている。

 そんなことは今の俺にとって関係なかった。ドアの隙間から漏れる、微かな匂い。その持ち主をヨホロに会わせれば、お役御免だ。


「どぅええええりゃあああああああああああ‼︎」


 右足を前に出して、思い切りジャンプ。

 慣れない飛び蹴りが不恰好でも、兎に角今は急いで怪異の元へ行くべし。

 だが——


「痛い‼︎」


 普通の人間として暮らしてきた俺が、急に運動神経が良くなるわけでもなく、元々格闘技を習っていたわけでもない。

 うまい話などないのだ。

 右足負傷。

 階段から転げ落ち、床に転がる俺を尻目に、ヨホロは人型に戻る。彼は屋上へと繋がるドアを見つめていた。


「ナワミサキごときが僕に楯突くか」


 ヨホロは右の拳を左手で掴む。準備運動だと言わんばかりにポキポキと怖い音を鳴らした。

 そして躊躇なく、荷物に向かってぶん殴った。


「ッしゃあ!」


 テーブルや椅子、梯子などが雄叫びと共に粉々になる。

 これは自然の原理ではない。

 これは決して俺の日常ではない。

 俺は眉を寄せ、目を背ける。


「普通、パンチで粉砕できるわけがない……!」

「獄丁なら、これくらいできて当然。おめーも余裕だろ」

「……俺は普通の人間なんで」


 目前で右手を左右に振った。

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