2000年4月15日 14時32分
「あっ」
研究室を出て、事務室を通りかかった時、嫌なことを思い出した。
「どうしたのレオナルド君。また忘れ物?」
「また」とは失礼だが、思い当たる節もあるのでまあいい。
カウンターから身を乗り出して話しかけてきたのは、熊野副所長。
眼鏡の奥で、いたずらっぽい目が笑っている。
こういった内面の若さがあってか、52歳で白髪混じりでも老けた印象はない。上手く歳をとったものだ。
「今日は週末だなって」
カウンターの上に飾られているブロックカレンダーを見て思い出したのだ。
「そうね。週末ね」
「……あの日から2週間なんだよ」
「あの日……?」
副所長は首を傾げながら尋ねる。
「ダンの奴、2週間前凄くダルげにしてたんだよ。この前酷い目に遭ったのも4週間前だったし。だから今日は会わないほうがいいなって……」
目を瞬かせていた副所長は、俺が何を言いたいのか分かった途端に頭を抱えた。
「夫婦の仲に干渉したくないけど、そういうことはちゃんとしてあげないと駄目よ? あと、もっとオブラートに言えないの?」
これ以上どうオブラートに言えと?
性教育を受けていない子どもたちには分からないよう表現したつもりだが。
「あんたには分からないだろうけどよ、搾り取られる側の身になってみろよ。しばらく車椅子だぞ」
「求められないのも辛いわよ?」
あんたはもうな!
本当はもう家に帰って寝たいが、帰ったら絶対に寝られない。
かくなる上は。
「仮眠室に行く」
「……は?」
副所長が少し眉をひそめるが、関係ない。
俺が結婚以来、月一回壮絶な思いをしていることを彼女は知らない。
こういう時期になると、ダンの下着は警告色を思わせる色になる。ヤドクガエルを思わせる極彩色だ。
派手な色彩を見た時に警戒するのは、生物学的に正しい。
ダンが異彩を放っている時には近づかない。結婚10年で色々学んだものだ。
熊野副所長は呆れたようにエントランスのほうを見ていたが、何かを思い出したように目を見開く。
「そうだ! レオナルド君に書類を書いてもらわないといけないのよ。あのー、この前の論文に記載ミスがあったの」
「記載ミス? どんな?」
「それがねー、えっとー……」
彼女が書類の束を持ち上げてめくっているが、明らかにおかしい。
「それ発注書だろ? 論文じゃない。書類じゃなくて、パソコンで共有フォルダを見れば早いだろ?」
勝手にあたふたしている。なんなんだ?
俺が指摘して、「そうだったわね」とパソコンを立ち上げる。
今から立ち上げるのか!?
奥に起動しているパソコンがあるじゃないか。
「もういい、あとで教えてく――」
突然、背中に誰かが抱きつく。
誰かじゃない。抱きつかれた瞬間に分かるさ。
「あらダニエルちゃん、今日も元気ね」
「熊野さん、おはようございます! 夫の確保にご協力、感謝です!」
背中が温かいが、この温もりは俺にとって警報だ。
ぬるく湿った息が耳を撫で、熱いはずの背筋が凍る。
「おいババア! 俺を足止めしたな!?」
「何のことかしらね。ルナちゃんも遊び相手が欲しいでしょうから、頑張ってきなさい」
ダンの黒い手を引き剥がそうにも、びくともしない。
パニックホラー映画のモンスターに捕まった気分だ。
「仮眠室、空いているわよ。セキュリティーのパスワードはレオナルド君の知らないあの番号に変えておくから」
この研究所の実権を握っているのはこの熊野副所長だ。ここのセキュリティーのパスワードの変え方なんて俺は知らない。
つまりダンにどこかの部屋に連れ込まれた時点で俺は積む。
「ババア!! お前にいつかバトラコトキシンを飲ましてやるからな!」
「まあ怖い。それじゃあダニエルちゃん、いい知らせを待っているわよ。仮眠室のカメラはオフにしておくから」
ダンに担がれ、仮眠室に連れていかれる中、せめて副所長を呪うが、彼女には抗力があるのだろう。
エレベーターに乗り込む俺たちに手を振っていた。
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