2001年1月20日 9時0分

 今回も朝帰り。

 HP3Sの仕様について、酒匂さかわというプログラマーと口論になるまでに揉めた。まあプログラミングやソフトウェア開発は専門外の俺が口を出すのは相当に腹が立ったのかもしれないが、彼も生理学に知識がない。仲良くしたかったが、俺の指示に素直に従わない辺りが気に食わない。


 車を降り、玄関を開けたところで、客が来ていると悟った。知らない靴があるのだ。


 リビングに来てみれば、懐かしい顔がいた。


“あらレオ、久しぶり。お仕事頑張ってきたのね”


 ダニエルの実の母で、俺の育ての親であるマリアMaria

 見ない内に少し髪の色が淡くなった気がするが、オーストラロイドらしく肌は暗褐色。ダンとよく似ていて、瑞穂の街では目立つ風貌だ。


 彼女は瑞穂語が堪能でないから、俺たちと話す時はアルビオン語だ。


 そして向かい合って紅茶を飲んでいたらしいダンがアルビオン語で母に愚痴る。


“頑張りすぎなくらいだよ。昨日帰ってきてないんだから、また徹夜したんだと思うよ?”

“母さん、久しぶり。帰ってきたなら連絡をくれればいいのにさ”


 敢えてダンの愚痴には反応しない。話が逸れる。


“研究所に連絡したけどね。さっさと帰っちゃったって言うから。何かあったの?”

“……別に”


 瞬間的に黙ってしまった。


 悪い癖だとは思う。でも、思っていることを洗いざらい言うことが出来ない性分なのだ。

 でも少し言い淀んだだけなのに、マリアは察した様子だ。


 彼女は微笑みつつ、話を続けた。


“そう。何もないのなら心配は杞憂だったのかもしれないけど、何か上手くいかないことがあったら、一休みするのも大切よ?”


 マリアは椅子を引いて、隣の席に座るよう促す。

 座って欲しいところをポンポンと軽く叩くのは、昔からの癖だ。


“わたしの隣だって空いてるよ?”

“お前の横は休まらん!”


 ダンの隣に行けば、絶対にボディータッチが始まる。親の前だろうと油断できない。


“コーヒーのほうがいいかしら?”

“いや、同じのでいい”


 俺専用のマグカップが用意されていて、それに入った紅茶が差し出されるが、砂糖の類は遠いまま。

 意地悪ではない。俺の好みを知っているのだ。コーヒーも紅茶もストレートがいい。


 俺が一服したところで、マリアが尋ねる。


“今日はどうしたの? 熊野さんが、あなたが挨拶もせずに帰ったって言っていたわよ?”

“大したことではないんだがな……”

“あなたが何かで怒ったというなら、わたしには大したことよ”


 決して責めることはない、懐かしい口調。虚勢を張っているのもむず痒くなり、堪えきれなくなる。


“……あるプログラマーと口喧嘩さ。システム生物学のスーパーコンピューター用ソフトウェアの開発で、かなり揉めてな。

 俺の言った通りの仕様になってなくて、それを指摘したら、『こっちのほうがシンプルだ』って、開き直ったような反応だったんだよ。カチンと来て……。


 あれだとアミノ酸配列から高次構造にフォールディングするまでに破綻が起きて、構造生物学的なシミュレーションできなくなる。中間代謝どころか、ホロ酵素とかもっと単純な話もできなくなる。

 かなり根本的な問題なんだ”


 黙って聞いてくれているマリアは、きっと専門用語の意味が分かっていない。理解しようと頑張っているのだろう、だんだん目が泳ぐようになった。


“……ホロコーストって――”

“ホロ酵素! 補因子を持った酵素だよ。いつそんな怖い話をした?”


 まあ、こういうところの加減はダンにしっかり遺伝している。


 俺が何を考えているか知らないであろうダンは緑色の眼で見つめてくるが、とりあえず触れずにおく。


“多分だけど――”


 無視を決め込んだ矢先に、ダンが話しかけてきた。


“専門外の人への説明に専門用語しか使っていないんじゃないの?”

“……ああ”


 そう答えた途端に、二人から集中砲火だ。


“それは不親切でしょう?”

“ちゃんと教えてあげないと”

“だが何をして欲しいかは伝えたぞ?”

“それでも、自分がすることの意味くらい理解していないと仕事なんてできないわよ”

“相手の人はレオ君に難しい言葉遣いしていたの?”

“話についていけた”

“それはあなただからよ。相手の人が対等に分かり合えると限らないわ”

“分かったって……”


 挟み撃ちされ、あえなく降参だ。


“もうちょっと配慮がないとね”


 ダンから追撃もあったが、マリアは俺の背中を摩り、叱ったあとの“ごめんね”のモードに入る。


“あなたが思っているより、世間は無知な人が多いの。わたしもかな。その人たちに歩み寄れば、協力だって得られるはずよ”


 自分でも拗ねていると分かる。

 俺だって、どこかでは人に合わせてやればいいと分かっているが、自分のペースが乱れるのが嫌なのだ。

 しかし、そう意地を張っているというのも分かっている。


 俺は、曖昧に頷くだけだった。


ガブリエルGabrielなら、何てアドバイスしたのかしらね”


 お父さんの名前も久しぶりに聞いた。


“多分、母さんと言うことは変わらないんじゃないか? “ライバルを尊重しろ”とか”

“確かに言いそう”


 ダンの相槌に、マリアは微笑んだ。


 そして、ダンを見つめていたマリアは、何かを思い出したように手を叩く。


“ねえ、ガブリエルの墓に行く前に、加古かこ造船所に寄っていこうかと思うの。ダンたちも来ない?”

“行きたい!”


 ダンがマリアの提案に飛びつく。


 ガブリエルが代表執行役だった加古造船所には、今でも縁がある。だからマリアが本社に遊びに行っても、すごく歓迎してくれる。


 元々海洋国家ネヴィシオンの出身で、船への理解が深いガブリエルは、技術顧問として加古造船所に招き入れられ、死ぬまでそこで働いていた。天職だったと思う。


 俺と似て、技術者タイプだから仕事が大好きだった。でも、俺と違って、俺も含め家族を大事にしていた。まだ追いつけないと思っているし、時々、寂しくなる。


“俺も行く”


 俺がそう言うと、二人は何故か驚いた反応をする。


“疲れているでしょうに”

“無理しなくてもいいよ?”


 その心配は無用。


“俺は墓参りしたいんだ。それに、あそこの会社にも世話になっている。挨拶くらいしてもいいだろ?”


 マリアは微笑むように、“律儀ね”と呟いた。

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