2001年7月2日 17時28分

 デスクの引き出しにノートを戻そうとすると、中にあったケータイが光っていた。

 二つ折りのそれを開いてみれば、着信が7件、受信メールが18件と出ている。見るまでもないが、どれもダンからだ。


 普段、ケータイの着信音が邪魔だからマナーモードにした上で引き出しに入れている。

 思い返せば確かにブーブー鳴っていたな。


 今日の仕事は終わったし、気は重いが帰ればまた無視したと騒ぎ立てられるだろうから、折り返しの電話をするしかない。


 コールが1回鳴り終わるまでに反応があった。


「今日は早く終わるって言ったじゃん!」

「30分も待てんのか?」


 確かに着信や受信の時間を見たら5時以降だった。

 ちょっと書類整理をしていたらこんな時間になったが、定時から30分しか過ぎていない。


「で、何の用だ?」

「話逸らして……。まあいいけど。今日さ、ヴァニーユに来てよ」

「ヴァニーユって、ここの向かいの?」


 ここディニティコス生命科学研究所の前、大通りを挟んだ先に、繁盛している喫茶店がある。パフェが売りだそうで、俺は中に入ったことがないが、事務方でそこそこ話題になっている。


「そう。もう席取っているから、早くおいでよ」

「ちょっと待てよ、まだ――」

「早く!」


 まあいいか。日報くらい明日出せば。



 小洒落た店というのは、なんだか入るのがむず痒い。自分に似合わないような気がして、浮いた心持ちになるのだ。


 店員は俺を見るとすぐダンたちが座っているところまで案内してくれた。

 ダンの傍らでいぶきが座っている。何か塗り絵に落書きしているようだ。


「遅いよレオ君!」

「なんで店員が俺の事知ってるんだよ」

「ぼさっとしているイケメンが来るって言っておいた」

「やめろよ恥ずかしい」


 そんな情報で俺と判断されたのか。


「で、どういうつもりで呼び出した?」

「それは、お祝いしないとでしょ?」


 「お祝い?」と聞き返すも、ダンは自信たっぷりに頷く。


「昇進したって言ってたじゃん」

「ああ、そのことか」

「『ああ』って何よ、『ああ』って」


 いぶきが塗り絵からはみ出るほどクレヨンを走らせ、ダンが慌ててクレヨンの線を紙ナプキンで拭う。


 昨日、つまり7月から俺はバイオテクノロジー部門の主席研究員になった。室長や課長は任せられていない、いわゆるライン外の役職で、相変わらず部下はいないが、任せられる仕事は上席研究員の時よりも増えるだろう。


「実際のところ実感がないんだよ。今までも個人の実験室を使わせてもらっていたし、肩書きが変わっただけなんだよ。同期の変な奴に疎まれるし」


 最近、俺の昇進を嫉んでいる奴がいるようで、熊野副所長が「嫌がらせに気をつけなさい」と念を押してくる始末だ。 


「でも、それはレオ君の努力を知らない人でしょ?」

「努力ねえ。そんな大したことしてねえぞ」

「大したことしてないんだったら早く帰ってきてよ」


 お冷を飲んでいたのにそんな小言を言われて、口をつけたまま固まってしまった。


「そんなに家にいづらい?」

「そうじゃねえけど、仕事は仕事なんだよ」


 ふくれっ面で俺の目を見つめるダン。


 その二人の間に、パフェが運ばれてくる。


 機嫌が悪くなったのかと思っていたが、そのパフェに目を輝かせるくらいにはまだ無邪気さがある。


「でも、レオ君は周りへの配慮が足りないから、いつか痛い目に遭うと思うよ?」

「はいはい、俺は嫌われ者ですよ」


 毒を吐くと、ダンはアイスをスプーンですくう。

 俺が軽く流すと、やはり虫の居所が悪いらしいダンが睨む。スプーンを持ったまま。


「先輩さん、何人追い越した?」


 少し困った質問だ。俺は研究所の中でもフリーに動いている。どこまでを俺の上司と見るかによるが――。


「生物工学部の部長未満はみんな追い越したことになるな。把握してない奴もいる」


 ダンは、ポカンとした顔を見せる。そして、呆れたように首を横に振り、溜め息を吐いた。


「把握してないのは駄目だよ。レオ君を誤解して怒っている人いっぱいいると思うよ?」

「勝手にしておけ――」


 突然、甘く冷たい物が口に突っ込まれる。驚いて口を閉じると、前歯にカチリと金属が当たった。


「人付き合いが下手」


 冷たく指摘するダン。


 俺の口からスプーンを引き抜くと、ダンはそのスプーンでアイスを食べる。


「何か手伝うくらいしないとね」

「手伝うと言ってもなあ」


 独りのほうが楽なんだよな。


 まあ、ダンの言うことも一理はあると思う。

 人工知能がドライに研究をしているような時代はまだ始まっていないし、研究所の構成員は皆人間だ。研究者それぞれにプライドがある。


「とにかく、置いてきぼりにしないことだね。昔のチームに、出し抜かれたって思われても仕方ないよ」

「面倒なこというよな、ダン」


 それぞれに自分のペースがあるとすれば、俺はほかよりかなり速いと自負がある。それを遅い奴に合わせるのは結構面倒なのだ。

 どうせ俺には気遣いが足りないからとか言われるだろうが、事実ゆっくり歩くのは疲れるのだ。


 いぶきが母親の食べている物を食べたくなったのか、手を伸ばしながらぐずり始める。


「ダンなら、どうやって機嫌を取る?」


 ダンは小さいスプーンでアイスをいぶきにあげると、俺に向き直って、さも当然のことを教えるかのように諭す。


「仕事だけじゃなくて、プライベートなことでも何か手伝ったり、一緒に食べに行ったらいいんじゃないの? 誰かのことを褒めるだけでも違うよ?」


 却下。


 さすがに口には出さないが、ダンはかなり親密な人間関係を作るように言っている。人付き合いは苦手だ。


「まあ、レオ君の無愛想さは今に始まったことじゃないけどね。ご近所さんの評判が悪いの、知ってる?」

「ほっとけ」

「ほらあ」


 よく分かった。俺は先天性の付き合い下手だ。


「わたしがなんとかしてレオ君の株を上げてるのに、そんなことも知らないで」

「分かったよ、ありがとうな」


 いぶきの口を拭っていた手が止まり、ダンが俺をにんまり見つめる。


「久しぶりに褒めてくれたんじゃない?」


 あれは褒めたの内に入るのか?

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