2001年11月8日 09:55
昔住んでいた家よりも大きい。
わたしはレンガ造りのその屋敷に見入ってしまった。
神戸の街並みに溶け込む、赤茶色い外壁を眺めながら歩道を進む。
その塀を見上げれば、痛そうな有刺鉄線が張り巡らされている。防犯上仕方ないというのも分かるし、同時に厳格な建物ということも物語る設備だ。
レオ君と内海さんは、並びながらも何も言わず、ただただわたしたちの前を歩いていく。
わたしは、歩き疲れたルナを抱き抱えながらそれについていく。
レオ君はルナを抱き上げ続けるだけの体力がないので、こういった力仕事というのか、子どもをあやす役はだいたいわたしに回る。
不満はないし、納得している。
レオ君は人付き合いがいいとは決して言えない。1週間近く家を空けることもあるし、その間何していたかといえば、研究室に篭って仕事だけしているみたい。家にいてもゲームが優先。
それだけ思えば酷い夫だと思えるけど、今までの経験から言えば、ただ無愛想なだけ。
まず、信頼している人にしか近づかない。猫みたいな性格とも言えるかも。
暖かい、居心地のいい場所に居座る猫のように、いつも落ち着く場所を探している。
レオ君は、親も亡くし、育ての親も亡くし、まだ産まれていなかったかもしれないけど、子どもも亡くしている。だから、人の温もりから離れることはしない。
そんな彼の、暖かい拠り所でありたいと、わたしは出会って以来そう思っている。
そんな思案も知らないのだろうね。レオ君は振り返り、わたしとルナの様子を確認すると、また前に向き直ってしまう。
ルナを抱き直すと、彼女の髪の毛が頬をくすぐった。
ゲートを潜り、異国情緒のある屋敷の玄関に立つ。
内海さんがベルを鳴らす。
ここから見渡すだけでも、広い庭だ。花壇の管理も行き届いているし、芝生も刈り揃えられている。
これでも大司教の公邸としては控えめな構えなのだとか。
玄関が開き、中からお手伝いさんと思われる女性が顔を出す。
「失礼いたします。本日10時からお話があると伺って参りました」
「内海様方ですか?」
「ええ」
お手伝いさんと軽くやり取りすると、すぐに中に入れてもらえた。
ホールの脇の扉から、応接間に通され、ふかふかのソファーに腰掛ける。
ルナは、こういう屋敷に関心がないのか、すやすや寝ている。わたしが興奮しているだけなのかな?
二人掛けのソファーにわたしたち家族が腰掛け、内海部長がもう一つの一人がけのソファーに座る格好だ。
ついつい、こういう時は部屋を見回してしまう。
レオ君の服に皺がないかも確認する。
レオ君はいつも髪がぼさぼさだから、昨日は美容室に行かせた。本人は嫌がっていたけど。
髭は今日剃っていないみたいだけど、大丈夫かな。
白衣もいつも皺だらけだけど、今日は新品を来てきたはず。
程なく、わたしたちを呼んだ、若葉
「わざわざおいでくださり、ありがとうございます。
彼が手で腰掛けるように促すのを待ち、またソファーに座る。
かっちりと白い服を決め込んだ若葉さんは、40歳頃だろうか、格好のいい人だ。髭も綺麗に整えていて、さすが聖職者だ。
「妻があとで参ります。支度に時間が……。ですが、断りは入れています。先に話だけでも進めましょう」
彼はわたしたちの対面のソファーに座り、ルナを優しく見つめる。
「可愛らしい彼女が、ルナちゃんですか?」
「ええ、そうですよ。ただ、今回の話はお断りさせてください」
思わずびくっとしてしまった。
なんて失礼な返答を!
でも若葉さんは怒る様子もなく、優しく微笑む。逆にわたしの様子を察して、わたしの不安を拭う。
「ご心配なく。今回お願いするのは私たちです。無理を言って時間をくださったのですから」
若葉さんがレオ君に向き直ると、レオ君が話の主導権を取った。
「世辞は抜きで行きましょう。話はだいたい内海部長から聞きました。最初に言っておきますが、この話には反対です」
こんなこと言っても大丈夫なの!?
若葉さんは真顔で、真剣に話を聞いている。
わたしも、昨日どういう訳かレオ君から聞いた。
若葉さんは、GeM-Huである子どもを欲しがっているというのだ。
「もちろん、このような話に飛びつく私共に非があります。ですが、私共もこのように申し上げるほかございません。ほかに、道がないのです」
言い終えると、若葉さんは目を伏せた。
嫌な雰囲気が、この応接間に漂う。
わたしがこの空気に耐えられないと思っていた頃に、扉が開く。
そこから入ってきたのは、とても色の白い、柔和そうでありながらすごく痩せている女性だ。
すぐに若葉さんは立ち上がり、彼女の手を引いて自分の隣に座らせる。
そして女性はレオ君に深々と頭を下げた。
「この度は私共のためにご足労おかけいたします。若葉皐月と申します」
それに対し、レオ君は目を合わせない。内海さんのほうを見て、不満そうにしている。
「失礼を承知で申し上げます。ルナさんのことを聞いた時、希望を感じました。私共の夢を、叶えられると思ったのです」
「夢か……。若葉家の繁栄ですか?」
「そんなことではありません!」
彼女はか弱そうに見えるけど、はっきりした口調でレオ君の言葉を否定する。
「私が子どもを持つことは、いけないことなのでしょうか?」
「自然な方法を試してから言ってください」
「それで子どもを二人亡くしているからこそ頼んでいるのです!」
わたしの肝が冷える。
多分レオ君はこれくらいでは意見を譲らない。言葉を訂正しないと思う。
でも、とても傷つけるようなことを言ってしまった。
実際、皐月さんの目が赤く潤み始めた。
「わたしは――。わたしは先天性の病気を患っているのです」
ほろりと、彼女の眼から涙がこぼれる。
霞さんは皐月さんにハンカチを渡しつつ、フォローに入った。
「妻は血友病を患っています」
「
遺伝子の専門家として、当然血友病に理解があるレオ君は、不躾だけど専門的な質問をする。
それに答えたのは、皐月さんだった。
「血友病Bです。第九因子が欠乏しています」
「珍しいタイプですね」
「両親共に保因者だったようです」
「となると、子どもは必ず保因者で、男なら100パーセント発症する訳か」
血友病は、八百万教の聖職者の家系でかなり頻度が高いそうだ。
恋愛結婚よりも政略結婚が多いから、有力者同士だと血が濃くなるのだ。近親婚とまでは言わないけど、親戚同士の結婚も有り得るみたい。結果的には、病弱な家系になってしまった。
レオ君は皐月さんを下から上まで何かを確かめるように見つめ、冷たく言い放つ。
「出産は無理でしょう」
皐月さんが、震える手を握りしめる。
「見るに、ファンデーションか何かで隠していますが、日常生活で内出血を起こしているのでしょう。推測ではありますが、月経でも体力を使っているのでは。中等症以上に見えます。そんな人が出産なんてしたら、赤ん坊共々死にますよ」
レオ君が言い終わるのを待っていたようで、レオ君が口を閉じると同時に皐月さんが真っ赤な眼を見開いた。
「私はどうなっても構いません!」
珍しく、レオ君が
「話の上では、子どもの遺伝子を組み変えれば、その子は健康で、分娩の瞬間まで母体が持ちこたえれば産まれるはずです」
「おい……」
冷静なレオ君が狼狽えるのは、初めて見たかも。
今にも過呼吸を起こしそうな皐月さんを若葉さんが落ち着かせる。
そして、彼から交渉を切り出す。
「一度だけ、チャンスをくださいませんか? 彼女の体力を考えても、最後のチャンスなのです。この件で妻や子どもが死んでも、私は責任を問わないと約束します。
あなたにしか頼めないのです。わたしたちの子どもから、血友病の因子を取り除いてください」
見れば、旦那さんも泣き出していた。
レオ君は泣き落としでは動かない人間だと知っているけど、今回はさすがに熱量に押されたみたい。
目頭を押さえながら、レオ君が俯きつつ尋ねる。
「採卵していますか?」
「いえ」
「ならダニエルのを使ってください」
「えっ?」
わたしの!?
「待ってください、わたしの子を――」
「細胞核を移植する。基本的なゲノムはあなたたちから創りますが、今皐月さんから採卵はできないでしょう。
ミトコンドリアなど一部の情報はダニエルから受け継ぎますが、基本的にはあなた方の遺伝子を受け継ぐ子どもです。
いいな? ダン」
「……いいけど」
皐月さんはすすり泣きながらも、小さく頷いた。
事の経過を見守っていた内海さんは、彼もまた納得したように頷いた。
「ただ、条件があります」
レオ君は丸く収まりそうな雰囲気をかき消す。
「その子どもはGeM-Huとなる訳ですが、ただ恩恵を受けるだけというのは気に入りません。GeM-Huとして生きていくからには、刻印を押させてもらいます」
若葉夫妻はその言葉を聞いて、とても不安そうに、「刻印とは?」と尋ねる。
「人々が見ただけでGeM-Huと分かるよう、アルビニズムとします」
「アルビニズム」と呟く皐月さんはよく分かっていないようで、霞さんが「白皮症のことだよ」と耳打ちした。
「禁忌を犯しているんです。それなりの責任を負ってもらいますよ」
また夫妻が揃って頷いた。
ルナの時は、こんなことを言うことはなかったと思う。でも、ルナを授かってから考えが変わったのだろうと思う。
わたしは、産まれてきた子どもは平等に歓迎すべきだと思うけど、レオ君はその子どもを迎えるのに責任を負うつもりみたい。
こうして、ルナに弟か妹ができることになった。
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