2002年11月4日 16時4分
遠くで産声が聞こえた。
俺は本来部外者だが、待合室にまでは来れた。この奥の分娩室で、あの子が産まれたのだろう。
でも、様子がおかしい。扉の奥がものすごく慌ただしいのだ。
多分、恐れていたことが起きている。
待たされた。それはもう、待たされた。
赤ん坊ならもう新生児室にいる。スノーホワイトとでも言うべきアルビノの子だ。ガラスの向こうに並べられた赤ん坊たちの中でも、異彩を放っている。
でも、一向に皐月さんの姿が見えない。不安は、増すばかりだ。心なしか、看護師の行き来が激しい。
そりゃあ、ここは大学病院で忙しいとは思うが、皆の顔が沈んで見えるのだ。
俺が悶々とした面持ちで赤ん坊を見ていたのだろう。泣き出す子がいた。
看護師がその子の様子を見に来た頃に、若葉大司教が来た。
背丈は俺と変わらないくらい、つまり160センチ中頃。聖職者らしく白を基調にした服で、整えられた髭には威厳がある。
でも、その歩き方を見て、俺の胸騒ぎがどうしようもないほどになる。明らかに肩を落としているじゃないか。
彼は立ち止まり、寂しそうな目で俺を見据える。
「最後は慌ただしかったですがね。逝かれました」
目眩がする。もう、こんな気分は味わいたくなかったのに。
「どうしてですか? 医師が凝固因子剤を使っていたなら、リスクは低減されるはずです。対策はしていたのでしょう?」
皐月さんが血友病
今までも出産に伴って死にかけているから、今回が最後のチャンスとは言っていたが……。
「もちろんです。でも、いかんせん体力が落ちていたもので、その出血のショックに耐えられなかったのでしょう」
そうか。そうだよな。
彼女は元々細かった。昨日会ったが、妊婦にしては全く肥えていなかった。やつれているというくらいだった。
どうしようもなくなり、拳を振り回す。壁を殴る訳でも、他人を殴る訳でも自分を殴る訳でもなく。
近くの壁によりかかり、髪をむしるようにかき乱すのを、若葉大司教が肩を叩いて止めた。
「博士、そう気を病まないでください。あなたは、彼女が本来残せなかった希望を、残せるように手助けしてくれました。本当に感謝しています。」
「俺が許せないんです……、自分を……」
そんな俺の肩を掴み、抱き寄せ、そして彼は熱く抱擁した。
やめろよ、親父さんを思い出す。
「皐月は幸せでした。絶対に。あなたはあの人に夢を持たせてくれた! そして、夢を叶えてくれた!
彼女も死が怖かったとは思いますが、それでも皐月の最後は幸せだったと、確信しています」
彼の「ありがとう」という言葉に、妙なものを感じる。でも、本心だろうし、納得するしかない。
俺は、彼女の死因を作った。でも、感謝されている。
俺は、幸せな死か不幸な生なら、どっちを選ぶだろう。皐月さんは幸せな死を選んだ。
でも、誰だって生きたいものだろう。彼女には、まだ楽しい未来があったかもしれない。でも、それよりも息子を産むことを希望した。
俺に、全貌は分からないが、やはり理解できない部分がある。
「少し、懸念があるのですが……」
俺が彼に抱きつかれながら、「懸念」と言葉にすると、大司教は抱擁を解き、顔をまじまじと見てきた。
「俺はこの前言った通り、あの子にはGeM-Huだという責任を負わせました。
あの子はアルビノで、彼は自分を見る度にその白い烙印を見ます。その責任に耐えられるでしょうか?」
懸念という言い方がまずかったのか、かなり心配したようだ。でも、俺の言い分を聞いて、若葉大司教は笑った。
「かしこまりました、彼がその重責に耐えられるよう、強く育てます」
そして、大司教は新生児室のガラス窓の前に立つ。
「それでも不思議ですよね。この子たちは、いつか私たちを越えていくのです。私としては本望ですがね」
大司教は、俺の背中に触れると、諭すように言った。
「大丈夫。子どもというのは、案外強いそうです」
それは、知っているつもりだった。でも改めて言われると、慢心があった気がする。
また、部長に怒られるな。「知らない世界に敬意を持て」と。
俺はまだ、3歳まで子どもを育てた経験しかない。その子がどう育つかもよく知らない。それでも、いぶきに驚かせられることはある。人は強い生き物だと、よく分かる。
同じように、この子も強いのだろう。
「そうだ、名前を考えたのですが、聞かれます?」
「まあ、せっかくだし、聞きましょう」
唐突に、いたずらっぽく笑う大司教が、名前を聞かせたがる。
俺としても、否定する理由もなければ、名前がないと呼びにくいので、聞くことにした。
「若葉さつきです」
思わず聞き返したが、同じ名前を繰り返すので、瞬間的にこの人はおかしくなったのだと思った。
「占い師には怒られそうですがね。皐月の命日に産まれた命には、皐月の遺志を継いで欲しいのです。人生を楽しもうという人生を、楽しんで欲しい、そんな思いで、ひらがなでさつきと名付けました」
それはまあ、なんというか、さつき君は色々な期待を託されているのだな。
「外国語ならさつき二世というところですね」
「……左様でございますね、そこまでは考えておりませんでした」
おい、摂津大司教、外交も気にしなきゃいけないポジションでそれはないだろ。
ガラスの向こうで、さつき君がくしゃみをした。
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