第11話 セックスの拙劣さを指摘される吐く打ちのめされる


 ミオナさん、よかった、無事だった――


 事故や病気の可能性も考えていたので、おれはほっとしてミオナさんに声をかけようと手をのばそうとした。


 するとミオナさんは「ヒッ」と悲鳴をあげ、両腕を自分の身をまもるようにあげ、あとずさりする。


「痴漢っ! 痴漢です、この人いま私のことさわりましたっ!」


 そのことばが、おれの耳にはたしかにはいったのだが、脳がうまくその意味を処理することができなかった。


 ミオナさんからまっすぐのばされたかれんな人さし指は、おれのうしろのだれかを指しているんだろうと、ゆっくり、時間がとまったかのようにゆっくりと首をうしろにねじむける。


 ――だれもいない。


 ということは、一応、彼氏であるはずのおれのことを、「痴漢」と指弾しだんしているってことだろうか……


「だれか、つかまえて!」


 ちょうど視界の奥にいた、駅員さんがあわててこちらへはしってくるのをおれはぼんやりとひとごとのようにながめていた。

 購入してからだいぶ時間がたつ、職場のおれのパソコンみたいに、きっと、時間をかけて重いエクセルを立ちあげているところなんだとおれは頭のすみで連想をかさねる。


「……リョータロ!」


 耳もとで、カバネちゃんの声がはじけた。


「いまは、スマホひろって、逃げたほうがいい」


 パチンと目のまえで風船がわれたように、ハッとわれにかえる。

 機械的に、言われるがままバキバキに割れたスマホをひろうためにサッとかがむと、「この痴漢ヤロウが!」という野太いおたけびと、胸ぐらをつかもうとしたのか筋骨隆々とした腕がおれの頭上をかすめるのを風で感じた。


 ――にげなくちゃ。


 そのことばだけが瞬間頭に浮かんで、おれをらえようとやってきたらしい男性の足を、とっさに足で引っかけつつスマホを手につかんで立ちあがる。


 男性がよろけているスキに、トイレのすぐ脇にあった階段をけのぼっていく。


 駅員さんの「待ちなさい!」という声のほか、その男性の「逃げんじゃねェ!」という声がおれの背をつかもうと追ってくる。


 チラリとだけ見えたミオナさんは、心底しんそこおびえるように肩をちぢめて両腕を抱き、うつむいている……。


 ――


 ――――


 ――――――――


 ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ――


 走るほどに、息が切れる。

 人助けしてたときも、ここまでの必死さをもって、走ったことはなかった。


 痴漢としてつかまれば、人生が崩壊する。

 その恐怖がおれの足をまえへまえへとうごかした。


 自動改札機をぬけたあとも、野太い男性の声はおれを追いつづけた。

 おれはあまり来たこともない街を、よくわからないままに走りつづけた。


 すこしずつ、すこしずつ男性の声は遠くなっていき、ようやく聞こえなくなってからは、真っ赤に燃える太陽にいぶされ体中の水分がすべてながれ出してしまったかのように汗だくになっていた。


「ガフッ、ゲホッ、おぇぇぇ」


 状況を理解することができず、呼吸が回復しないまま、公園のすみで少し吐いてしまった。

 頭が、くらくらする。

 住宅街のはざまにかくれた、ベンチしかないようなちいさな公園で、おれはベンチに手をかけてひざまずき、うごけない。


「えっ、なんで? どうして? どうして」


 ブツブツと、ひとりごとを呪詛じゅそのようにもらす。


 ミオナさんに痴漢だってさけばれるようなこと、したか?

 さっき、さわってさえいなかったのに。


 これまでのミオナさんの思い出も、ずっと、まぼろしだったのか?

 ただの幻覚?


 いや、そんなわけない。

 何度も飲みに行って、うちに泊まってくれたこともあったし、セックスだって二回だけだけどしたし、あんなスタイルのいい人としたことなんてなかったからあの生々しさは夢想で補える範囲なんて超えているはずで、たしかに連絡は最近とれてなかったけど、「やさしい人がタイプ」って、おれのこと見ながら、酔ってあからめたきれいな顔して笑ってて……


「うぷっ」


 またすこし吐いたあと、そばの自動販売機でスポーツドリンクを買おうとするが、手が尋常じゃないぐらいブルブルとふるえて、ボタンがうまく押せない。

 連打してしまったらしく2つも出てきてしまって、どうにか取り出し少量を口にふくむと、液体と吐き気とがぶつかりあってしっかりとのみくだせない。


 ペットボトルのキャップをしめる手が、カチカチとふるえてハマらなくて、「なんで」現状がすこしずつ認識できていくほどに涙があふれてくる。


「どうして」


 うめいてベンチのはしっこにもたれていると、近くで「ヒッ」という悲鳴のような声がきこえた。


 ちからなく声のほうを見やると、いつかのように、カバネちゃんがこちらに背をむけてかすかにふるえている。


 似たようなすがたを見たのは、いつだったか……


 そうだ、おれがスポーツカーにかれそうになって、結局それて目のまえでバイクの運転手がかれて悲惨なすがたになっているのを見たときだ……


 ――泣いてるのか?

 ――なんで、キミが泣くんだよ。


 そんな声をかけようとして、カバネちゃんの顔をのぞきこもうと首を傾けると、自分がかんちがいをしていることに気がついた。


「ヒッ」


 カバネちゃんは、ふるえながら、笑っている。


「フ、フヒヒヒヒヒヒッ、ヒヒッヒヒッ、フヒヒヒヒヒヒ」


 これ以上ないくらい、邪悪さをほおにみなぎらせて。


「もう、もうガマンできないよぉぉぉぉ! もがいてるねぇ、苦しんでるねぇ。ああ、ニンゲンが、あがいて、生きぎたなくのたうちまわる姿はなんてステキなんだろう! 絶望にまみれて、なみだを流して、吐きちらしてる! ああ、もっとよごれてほしい。もっと虫みたいに地面を這いずってほしい。害虫みたいにあっけなく容赦なく踏みつぶされて足がもげて半身がつぶれても生きのびて苦鳴くめいをあげてほしい! 生きるって、そんなにうつくしいものじゃないよねぇぇぇ。シアワセって、不幸と苦しみのスキマにあるほんのわずかな一瞬間のことだよねぇぇぇ。仕事も、勉強も、恋愛も、生活にまつわるあらゆるものがうまくいかなくて、もがいてる! それでも生きる! それがセイだよ。ニンゲンが、生きるって、ことだよぉぉぉぉ」


 うっとりと、両手をほおにそえて空をあおぐカバネちゃんに、ことばがのどをあがってこない。


「ニンゲンは、こうでなくっちゃ。ぜったいに、死ぬなんてダメだよ。苦しんで、苦しんで、苦しんで、もがいてその姿をアタシに見せてよ、ねぇリョータロ」


 手のとどかない空中から、おれに手をさしのべて、わらいかけてくる。

 太陽を背なかに負って、まるで天のつかいみたいなまぶしさで。


「……キミが言ってた、『人が死ぬの大キライ』って、まさか」


「大ッッッキライだよぉぉぉぉ」


 カバネちゃんは、突如耐えがたい苦痛におそわれたかのように顔をゆがめて、顔面の皮膚をかきむしった。

 皮膚が、いや、が、かわいらしくデコった長い爪でえぐられ掘削くっさくされると、木のうろのような穴があいてドス黒い液体なにかが頬から流れていく。


 血ではない、「人間じゃないんだ」「最初から人間とはぜんぜんべつのだったんだ」と思わせるに足る、その漆黒。


「人が安易に死ぬのなんて、ぜったいにゆるせない。耐えられない。ひとりでも、一分いっぷんでも、可能なかぎり生きて苦しんでほしいの。そのすがたを私に見せてほしいの。自殺だったり、事故で即死しちゃうのなんて、サイアクのサイアク。リョータロが最初にたすけてくれたぁ、おばあちゃん最近死んじゃったの知ってる?」


「……ああ」タケシさんから聞いた話を、思い出す。「聞いた」


「リョータロのおかげでたすかったよぉぉぉ。頭打って即死なんておもしろくもなんともないから、最後までのたうちまわって死んでくれて、苦しむすがたをたっくさん見せてくれてわたしすっごくうれしかった。ゾクゾクしちゃった……」


「うそだ!」おれはつばをのみこんでから、さけんだ。「眠るように亡くなった、って聞いたぞ。大往生だったって」


「フヒッ! フヒヒヒヒヒ、ニンゲンって好きだよねぇ! 『眠るような、おだやかな自然死』ってやつ? 老衰が、自然死がどんなに悲惨なものなのか知らないでしょ。心が、タマシイがどんな阿鼻叫喚あびきょうかんを発して死んでいくかを知らないでしょ。『痛い、かゆい、熱い、たすけて、ころして』って、ずっと何度も何度もさけんでたんだよ、おばあちゃんは。でもまわりはなんにも気づかない顔して、『もう年だし、眠るように亡くなったから、きっと苦しくなかったろう』っておわったあとで『いいことした』みたいな顔してなぐさめあうんだ! ニンゲンって、ほんとに、おもしろいよねぇ。死ぬのなんて、苦しいに決まってるじゃん。命が、燃えつきていくんだからさ。おばあちゃんの寿命を、本来決まってたその苦しみを、リョータロがたすけてくれたおかげでとり返すことができたんだよぉぉぉ」


「……おれが、たすけたせいで……」呆然と、くりかえす。「じゃあおれは、なんのために……」


「やだなぁ、いいことをしたんだよ! リョータロもいい気分になれてたでしょ? お孫さんもうれしくて泣いてたじゃん。仕事もうまく行きはじめたってウキウキしながらしゃべってたじゃん。おばあちゃんは本来そうして死ぬべきだった、苦しい苦しい肺炎を授かって胸をかきむしりながら死ぬことができたんだよ。それは、あんな不慮の事故なんかでジャマしていいものじゃない、神聖なものなんだ。この世界でいちばんうつくしいものなんだ。それを、リョータロがまもってくれたんだよ」


「そうして死ぬべきだったって、寿命とか、わかるのか。まえに、直前じゃないと死ぬかどうかなんてわからないみたいなこと……」


「アタシそんなこと言ったぁぁぁ??」


 さかさまに浮かぶカバネちゃんが、大きく、人間ではとうていひらかないほど大きく口をひらいて哄笑こうしょうする。

 口が裂けて、地獄の空気が流れこんでくるような錯覚がした。


「死神のデマカセをいちいち信じてくれるだなんて、ほんと、リョータロは“いいひと”だねぇぇぇ。ミオナさんだっけぇ? あのひともリョータロが“いいひと”だから近づいてきたんだろうねぇぇぇぇ。あのひとと会ってるときのリョータロ、おかしくってしょうがなかったよ。見るからに浮かれちゃってねぇぇ」


「そ、そ、それは、しょうがないだろ。彼女と会ってるときなんて、だれだって……」


「彼女!!!」カバネちゃんはいきおいよくき出す。「あのひとのココロを代弁してあげよっかぁ?

 最初に声をかけてきたときは『こいつお人よしっぽいから行けそうだな。弟なんていないっつーのに即信じてて笑う』。

 何度か飲みにいってるときは『もっとスマートに口説いてさっさとセックスまで進めろよ。なんで私からキッカケをあたえないと手もにぎれないんだよ。童貞か。彼女いたとか言ってたけどゼッタイウソだわ。それか相手まかせでしか行動できないバカ』。

 セックスしてるときは『うわーヘタすぎて死にそう。いきなり胸をもむな強いしかも乳首にばっかり執着するな、下着の上からていねいにさわって徐々にこっちの気もちを高めろよ強引なのがいいとかフィクション真に受けてんのか痛い痛いまだ乾いてるから。こっちはなめてやってんのになめることすらしないしもういいや適当にアンアン言って腰ふって終わらそ』。

 お金を振り込んだときは『ようやくここまでもってきたのにコイツぜんぜん金ないじゃん……。そうか、ジジイ狙うのもバカ女のパパ活みたいでイヤだから若いやつに声かけてみたけど、そもそも金もってない問題があるのか……。あークソとりあえずコイツおわらせて次いこ』――」


「やめ、やめてくれ」


 頭がまっしろになる。

 トラックに正面からぶつかられたような重い、重い衝撃がして、視界がはげしくゆれる。

 自尊心がコナゴナに砕け散っていく音が耳のなかでやまない。

 頭が、割れる。おさえても割れていく。

 必死に手でおさえつけているのに、割れてこぼれていく。


「おねがいだ、やめて」


「その顔、その顔、その顔だよぉぉぉ」カバネちゃんは目をとろけさせる。「あとこれもあったなぁ、『動物園とかマジでありえない。せめてまえもって言っとけよこっちはテメェみたいなクソダサ私服じゃなくしっかりおしゃれをして、歩きにくいクツを履いてきてんだよ』『陰キャのやるサプライズとかマジで害悪でしかないよな』『家のなかだろうと無許可で胸とか尻さわってくんじゃねぇよ。日常生活のなかで突然さわられてアンアン感じちゃうなんてあり得ねぇに決まってんだろ頭沸いてんのか』……」


「やめろ!!!」思わずさけぶ。「いままで、協力、してきただろ。こんな、こんな、仕打ちを受けなきゃいけないほど、おれは、キミの、うらみを買ってたっていうのか」


「うらみなんてな~んにもないよ。ニンゲンをたすけてもらってたのも、アタシの楽しみのため。いまこうして、アタシをほっぽってうつつをぬかしてたリョータロを打擲ちょうちゃくするのも、アタシの楽しみのため。ねぇ、気づかなかったぁ?」


 カバネちゃんは逆さになったままパックリと口をひらいて、舌の中心にひかるピアスを見せつけながら、おれの顔を呑みこんできた。

 いつかふれられなかったように、カバネちゃんの口はのどはおれをすりぬけていくが、名状めいじょうしがたい寒気が全身をはげしく長くふるわせる。


「ニンゲンはさぁ、口でならなんとでも言えるんだよねぇ。ミオナさんだっけ? あの人といるときに、二回ぐらい人助けの機会があったけど、リョータロから言われないかぎりまったく手伝おうともしなかったどころか、なるべくまわりに溶けこんで無関係な人になろうとしてたよね。結局、行動に出るんだよ人間性ニンゲンセーなんてものはさぁ。もし、があるならおぼえておくといいよぉ」


 感触はないが、頬に沿ってのびる、カバネちゃんのしなやかな指が視界のはしにうつる。

 頭のなかで、ぐるぐると、いろんなことばが、まわっている。

 まわるたびに、自分の恥部が、愚鈍ぐどんさが撹拌かくはんされ、ぐるぐると脳の薄皮を切り裂きながらことばがとびつづける。


 ――なにも、しゃべることも、考えることも、できない。


「さて」


 カバネちゃんはつぶやくと、確認するように空をむいた。


「あと5分」

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