第9話 夜逃げって本当にあるんだと知って心身が死にかける


「てめぇんとこの事情なんて知らねぇよ! なんとかしろ!」


 そうお客さんから怒声が飛んできて、おれは「はい、はい、なんとか間に合うようがんばりますんで」と電話の受話器にむかって反射的にペコペコ頭をさげる。


 その姿勢のまま電話をおえると、音が鳴らないよう指でおさえながら慎重にコトリと受話器を置いた瞬間また電話が鳴る。

 ひと呼吸置いてしまうと、憂鬱ゆううつさが雪山の急斜面をころがりおちる雪だるまのごときスピードでふくれあがってゆくので、「オデンワ、アリガトウゴザイマス」と感情のスイッチをオフにし、自身をロボットに見立てて声を押し出す。


「先生が逃げたってどういうこと!?」


 べつのお客さんの大声がとどろき、衝撃で頭がキーンとふるえる。


 そう、社長が夜逃げをした。


 うちの職場はずっと、税理士事務所だと思っていたのだが、どうもいろいろ聞いてみると社長は無資格、いわゆるモグリの税理士だったらしい。

 ブラックジャックみたいなもの、といえばかっこいいのだが、あんな法外な金額を吹っかけられるような腕があるわけでもなく、ずいぶんとお安い金額であれこれやっていたのはどうも正規の仕事ができない負い目からのようだ。


「確定申告書の最初のページにさ、『税理士署名』って欄があるでしょ。うちはなにも書いてなかったけど、正式な税理士がやってたらあそこに名前をのせるんだって」


 先パイである原さんが、疲弊しきったようすで紙に指をさす。

 原さんも、おれも、この業界にはいるのがはじめてだったので、いわれてみればそんな欄があるなとは思ったが、そのようなルールが存在することすら知らなかった。


 日本では、無資格で税理士がするような仕事をしていると、逮捕される。

 この件があってから、「ニセ税理士 逮捕」と検索すると似たようなニュースがうじゃうじゃ出てくるのをはじめて知った。


 社長は、どうも自分に捜査の手がせまっていることを感じとり、夜逃げしたらしい。

 うちでは100件近くのお客さんがいるので、まあ、この規模でやってりゃそりゃーバレるわな、と社長の代わりにやってきた利根とね先生というおじいちゃん税理士がつぶやいた。


 社長は、この利根先生の事務所に以前つとめていたらしく、にげるまぎわに「事務所をたのみます」と言い置いていったらしい。


「あいつぁーよぉー! ちっとは仕事できたからメンドウ見てやってたんに、資格もとらずにハンパなまま逃げ出しゃやがって、あげくニセ税理士やってただと!? 恩をあだでかえすってのはこのことだなバカヤロが」


 利根先生は御年おんとし78歳という、一般の会社ならとっくに定年をむかえている年齢なのだが、まだまだ元気はつらつ、矍鑠かくしゃくとされており、ひとりごととは思えないいきおいで社長を罵倒した。


 おれや原さんには威丈高いたけだかにどなる社長も、当時の先生にかかっちゃかたなしなんだなと、すこし笑ってしまう。


 などというおれも、利根先生がきた直後、なんと呼べばいいのかわからず「えー、新社長……?」とおそるおそるお声かけしたところ、


「会社じゃねーんだよバァーヤロー!! 税理士のこたぁ『所長』か『先生』って呼べ、常識だろうが!」


 と烈火のごとく怒られ、最悪の第一印象をあたえてしまった。


 ――そんな常識知らなかったんです……


 と弁明しようかとも思ったが、たぶん言えば倍怒られることになるな、と察しておれはただ深々と頭をさげた。


 社長が夜逃げしようが、お客さんの会社が確定申告(通常、「決算日」というものから2カ月以内におこなう)というものをしなければならない時間は、まってくれない。

 原さんと「さすがに今回はしかたないんじゃ……」という話をしていたのだが、やってきた利根先生から、


「しかたない!? 確定申告の期限に間に合わなきゃーよ、お客さんの会社が『無申告』っつー状態になって、罰金発生したりへたしたら社会的な信頼をそこねるようなことになったりもすんだよ。おまえらがよぉ!? それを肩代わりできんのか!? 肩代わりできねぇーんなら死ぬ気でやれ。税理士側の都合で期限に間に合わねぇーなんてのは恥だよ、常識だろうが」


 とどなられ、かつ、


「あ、うちの事務所にここを手伝う余裕なんてねぇーからな。おまえらでやれよ」


 という付言ふげんもあり、もともと社長が自分で担当していた会社の分までおれと原さんでどうにかこなすことになった。


 とはいえ、自分の事務所の仕事もあるだろうに、足しげくこちらに通ってくれ、口はわるいものの質問すればおしえてくれるので、おれと原さんはとにかく月末を無事にのりこえるべく必死で残業時間をつみあげていくこととなった――


 ξ ξ ξ ξ


 これだけいそがしいこともあって、資格の勉強なんぞはもうまったくできていないし、ミオナさんへの連絡もまったくできていない。


 いや、まったくできていない、というのは正直ちょっと語弊があって、何回かLINEでメッセージを送ったのだけど、まあ、なんというか、ミオナさんからの返信が、ちょっと見当たらない。

 というか既読もつかない。


 おれなんかしたかな、とミオナさんと最後に会ったときのことを思い出すのだが、お母さんが入院して、自費でなにやらむずかしい治療をしなくちゃいけなくなって、という話があったので120万円をその場で振り込んで、ミオナさんはめちゃくちゃよろこんでくれて、「このお礼は、ぜったいするね」とおれの腕に豊満な胸をおしあてつつキッスをしてくれて、舞いあがって、とまあ、なんていうかそんな既読がつかないような事態になるとはあまり思えない。


 もしかして、事故にでもったのではないだろうか。

 あるいは病気? お母さんのことがあるのに、大丈夫だろうか。


 と、ミオナさんを心配する気もちが頭をよぎり、どうにか無事を確認する方法はないのかと胸をかきむしりたくなるその一方で、


 舞いあがったとき何度も「きょう泊まる?」といてしまったのがキモかったのか?

 思わず胸をさわってしまい「そとではやめてね」とニッコリ手をはたかれたのもキモさを増した?

 あるいは、振り込むとき20万円足りなかったので消費者金融でちょっと調達したことをバカ正直に話したら、ちょっと、引いていたようにも見受けられたので、そのせい?


 ――そこまでしてくれるなんて!


 と感激してくれるかなというゲスな下心からあえて話したのだが、それが伝わって逆に悪印象をあたえた、とかいうことはあるんだろうか。


 もしくは、正直考えたくはないのだが、最初から金目あてで、もう消費者金融に手ェ出したってことはコイツこれ以上しぼれないやんけふざけんなアホが、二度とうるわしい私のもとに顔を見せるなこのビンボー人、宝くじあてて全額を私に献上したあとね、という気もちのもとにLINEがブロックされただなんていうことは……


 仕事があまりにもいそがしく、ろくな食事もとれず、睡眠時間も毎日3時間ほどにきりつめていると、どうも思考がネガティブなほうへと流れていってしまう。


 いまは、なにはともあれ仕事を片づけていかないと――


 お客さんから送られてきた、ダンボールいっぱいにつまった領収書の束と通帳のコピーを見つめつつ、エナジードリンクをひとあおりしておれは必死の形相でパソコンに入力していった。

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