第8話 モチの妖精へと変身した直後に肉体が死にかける


「……いいね」


 チェックをお願いしていた書類をもどされつつ、職場で唯一の先パイ(うちは社員が2人しかいない零細事務所である)である原さんが、おれの肩にポンと手を置く。


「あと消費税のこまかいとこは直さなきゃいけないけど、この税額控除のやつ、よく気づいたね」


「あー、ありがとうございます。このまえ原さんのお客さんで、同じような話があったので……」


「そうそう、そういうのの積み重ねだよ。よくできてました」


 ふだん寡黙で、不必要なことはしゃべらない(のでなにを考えているのかいまひとつつかみにくい)原さんからそうほめられると、腹の底からジワジワとうれしさが湧いてくる。

 すぐに指摘された点を修正し、社長に書類を提出すると、


「おい、この税額控除の書類、原に教えてもらったのか?」


「あ、はい、先月似た案件があったとき教えてもらったので、それを見返しながら……」


「ふン」


 社長は書類にチェックマークを入れながら、ひとりごとのように、


「やっとつかえるようになってきたじゃねェか」


 とつぶやいた。


 きょうは機嫌がわるい(というか新規案件がふえたとき以外は基本的に機嫌がわるい)のに、婉曲的えんきょくてきではあるもののほめられたことにおどろく。


 仕事をすればするほど、知らなければいけないことが増えてきてイヤになることも多いが、いままで知らなかったこと、それも法律という世のなかのルールを知っていくことは、純粋に、おもしろいと思えた。

 胸にコポコポと、コップに麦茶をそそぐときみたいに、充実感が満たされていくように感じることも増えた。


 それに、以前は終電で帰ることも多かったが、最近はどんなに遅くとも21時には帰るようにしている。

 「終わらないよぉ」と嘆きながらもとにかくめどが立つまで仕事を進めるようにしていたのだが、正直なところ終電までのころうが21時に帰ろうが、ある程度ねむって翌朝きて進めれば大して成果には変わりがないことに気がついた。


 そうすると帰って、ちょっと走って勉強しても、それなりに眠る時間も確保できる。


 資格の勉強での模試の点数も、徐々にだがあがってきている。

 なんというか、「いい循環」みたいなものに入れたような気がして、少しまえまで死のうと考えていたことがウソみたいだった。


 ――効率化できることって、いくらでもあったんだな。


 いつもよりはやめに帰宅できたあと、ランニングをしながらそんな感慨にふけっていると、遠くから死神のカバネちゃんが飛んでくるのが見えた。


「リョータロぉぉぉぉぉ」


 夜の住宅街に、カバネちゃんの死神らしからぬへなへなとしたヘルプがこだまする。


「なに、きょうはどうしたの」


 聞くと、モチをのどにつまらせて死んでしまうおじいちゃんがいるという。


「それは、ちょっと、人生の最期としてはかなしいねぇ……」


 モチは年間数百人が犠牲になる、日本人の大量殺戮兵器とも聞いたことがあったが、実際に近くでそうなるという話を聞くとどうもものがなしくなってしまう。

 うちからは離れた位置にある家だったので、スマホの音声入力で「もち 吐き出させ方」と検索してたすける方法を調べながらすぐに走った。


「おじいちゃん、ひとり暮らしみたいだよぉ」


 というカバネちゃんのげんにしたがって家にたどりついてみると、いかにも昔風の高い石垣の一軒家で、さびた鉄の棒でできた門にはカギもかかっておらず、キィィとほそく高い音を立てるのみでかんたんに侵入できた。


 ドロボウみたいだな、通報されたらどうしようと若干の不安をかかえつつ、リビングの窓からのぞくとおじいちゃんがこちらに背を向けてイスにすわり、はげしくせきこんでいる。


 ずいぶん不用心ながら窓のカギもあいていたので、おれはそっと足音を忍ばせておじいちゃんに近寄って急襲きゅうしゅうし、いましがた調べたとおりおじいちゃんのアゴをささえつつ、肩甲骨のあいだをバンバンと容赦なく平手でたたいた。


「うぼげぇ!」


 エイリアンがタマゴを口から生み出すみたいな音を立てて、おじいちゃんの口からバビューンとモチが出てくる。


 おれはそれを見とどけ、カバネちゃんに目配せをするとうなずいたのでもうだいじょうぶだろうとまたそっと窓から抜け出す。


「ゴボッ、ガハッ……も、モチの妖精か……?」


 というおじいちゃんの声が窓越しにかすかにきこえた気がしたが、モチの妖精は白玉しらたまのようにクールに門から去っていく。


 ――いやモチの妖精ってなんだよ。


 と、一度はノッてみたものの、聞いたこともない空想上の生物に手柄てがらをうばわれたような気がしつつ交差点で信号が変わるのをまっていると、


「も、も、モチの妖精が出たよぉぉぉ! リョータロじゃなくてモッチーって呼んであげてもよかったねぇぇぇ」


 とカバネちゃん的にはたいそう気に入ったようで、おれの望原もちはらという名字とからめて嬉々ききとしていじってくる。


「だれがモチの妖精じゃい! 腹のモチモチは前とくらべたらだいぶ――」


 と、耳につけたイヤホンを直しながら反論していると、突然――


 キキィィィィィ!!!!!!


 という悲鳴のような音におそわれ、思わずふりかえる。


 真っ赤なスポーツカーが、故障でもしたのか、耳をつんざくような急ブレーキの音をまきちらしながら交差点のはじにたたずむおれにむかってきていた――


 洗練された、速く速く前へ進むためのとがった車体が、目にもとまらぬ猛スピードのはずなのに、スローモーションのようにまばたきをするごとにおれとの距離をらいつぶしてくる。


 ひとコマ、ひとコマ、車体が大きくなっていく写真みたいだ。


 ふと目の奥に、輪っかになったロープが、ぼんやりと浮きあがっておれの首にまきつくような幻像が浮かぶ。


 ――えっ、おれ、死ぬのか……?


 刻一刻とおれのもとへ突進してくる車に、ただぼんやりとそんな自問だけが浮かんできた刹那せつな――


 車体が急激に横にぶれ、おれの服をかすめて道路をすべっていったかと思うと、心臓をギュッとにぎってあっするような衝撃音とともに対向車のバイクを跳ね飛ばしてスポーツカーがとまった。


 ドクン、ドクン、ドクン――


 と、遅れて、心臓が衝撃を押しかえそうとするように絶え絶えと、体内で必死にあえぐ。

 血の流れる音が耳をおかす。


 スポーツカーの運転手はひどく狼狽ろうばいしたようすでそとへ出てくる。

 バイクの運転手はピクリともせず、道路に横たわっている。

 フルフェイスのヘルメットをしていて、表情が見えない。

 足がありえない方向にねじ曲がっている。

 ゆがんだ人体の下から、じわじわと、道路に、赤黒い染みが広がっていく。

 けつけたひとりが、電話でどなるように救急車を呼んでいる。

 写真や、動画をとるまわりの人もいる。


 呼吸が、浅くしか、できない。


「ヒッ!」


 悲鳴のような声がきこえ、おそるおそる声の方向を見あげると、カバネちゃんが顔をそむけ、その少女のようなほそい肩をちからなくふるわせていた。

 おれも、自分の顔は見えないのに、まっさおになっているのを感じた。


「な、な、なんで、おしえて、くれなかったの」


 ふるえる声で問うと、カバネちゃんもまたふるえる声でこたえた。


「ご、ご、ごめんね。死に関する情報しかわからないから、た、たぶんあの人は死んでないんだと思う」


 言われて、そうかと思う。

 思うが、ことばが、うまく頭にはいってこない。

 理解ができない。のみこむことが、できない。


「そ、そうか。死んでないのか」


 小声で、そのまま、よくわかっていないことばをくりかえす。


 死んで、ない。

 あのひとは、おれも、死んでない。

 死んでない。


 どす黒くよごれていくアスファルトを視界のはしに入れながら、のどと口のあいだでひとりごとを反響させる。


 死にたくないと、思ってしまった。

 ミオナさんとせっかくうまくいきそうで、仕事も職場でほめられるっていうこれまでからは考えられないようなことがあって、ほんとうに、うれしくってたまらなくって、試験だって、はじめて手ごたえみたいなものを感じられて、おれの人生は、これからで、だからいま、いまだけは、死にたくないと、思ってしまった。


 あのときすべてをすてて死のうと思えたはずなのに。


 おれをくためにせまりくる車の幻像がうすれて、ようやく、肺の底にすこしの空気がはいりはじめてきたころ、遠くから救急車のサイレンがかすかにきこえた。

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