第50話 決戦と未来 #4
返し馬を終えると、チコはほかのウマから少し離れたところで待機していた。ゆっくり俺を歩かせて、身体が冷えないようにする。
ヨークがこちらを見たが、チコが笑って手を振ると、何も言わずに、輪乗りをつづけていた。
ああ、風が気持ちいいぜ。
これがダービー前の空気か。いいねえ。いつまでも味わっていたいぜ。
俺が静かにタンデートの空を見あげたところで、やわらかい声が頭上から響いてきた。
「ごめんね。今まで迷惑をかけて」
チコがたてがみに軽く触れる。
硬い手だ。ウマの世話をしていれば、自然とこうなる。誇っていい。人が何といおうと、俺はその美しさがわかっているぜ。
「逃げて、八つ当たりして、また逃げて。そんなのばかりだったね。なんだか、全然、うまくやってなかった。自分では大人のつもりで、ちゃんとやっていると思っていたけれど、子供だった。何もわからないふりをして、わがままを言っていただけだった。回りの人はちゃんと見てくれていたのにね」
おうよ。ワラフもミーナもヨークもずっとお前を見守っていたぜ。
あまり声をかけなかったから、放っておかれたかのように思っていたかもしれねえが、それは違うぜ。
待っていたんだよ、お前が心の底から動き出すのをよ。
いつでも手を貸せるように。
俺だって同じさ。気になっていた。だから、ここへ戻ってきた。
「大事なのは、あたしが何をしたいか。そこなんだよね」
そういうことだ。お前がどこを向いているかで、すべてが決まる。
「あたしやるよ。馬鹿げていると思われてもいい。笑われてもいい。それでも、あたしは、今、自分のやりたいことをやる。それが一番いい」
そうさ。それでいい。
俺には、それができなかった。聡史とトラブった時、あいつに説教をかますだけで何もしてやらなかった。先のことを考えろなんて、自分ではやってもいないことを言って、あいつを追い込んだ。
大事だったのは、今だったのによ。今、何をしているか、何をしたいか、そのために何をするか。それだけを話せばよかったのに。
できなかったから、俺は現実を受け止めることができなかった。
だから逃げた。そして、引きずった。
何のことはねえ、俺はチコと同じことをしていた。もっと悪い形で。
チコを見て腹がたったのは、落ち込んだふりをしている姿がさながら俺の姿を鏡で映しているかのように見えたからだ。
こんなツラをしていたのかと思ったよ。
迷惑をかけたのは、俺の方かもしれねえな。
チコ。悪かった。もう少しうまいやり方があったかもしれねえな。
「あたし、牧場を作るよ。トークとの約束とは違う形になるかもしれないけれど、自分だけの牧場を持つ。そして、競走馬を作って、大きなレースに挑むんだ。そして勝つ。あたしのウマがすごいってことを皆に見せつけてやるんだ」
それがお前のやりたいことか。いいぜ、ならば、協力してやる。
「その前にやることをやろう」
おうよ。
「目の前のレースを勝つ。大事なのは今だから」
そうさ。お前のやりたいことに比べれば、こんなレースに勝つことなんて屁でもないはずだ。そうだろう。
俺が見ると、チコはうなずいた。
「勝とう。あなたの凄さを皆に教えてやるんだ」
おう。腹はくくった。じゃあ、行くぜ。
発走時間になって、俺たちはゲートの後ろに集まった。
出走馬は全部で三十二頭。
多頭数もいいところで、ちょっとでも位置取りを間違ったら、馬群につつまれて何もできなくなっちまう。
スタートが鍵だ。出遅れは絶対にダメだ。
俺はゆっくり歩きながら、ほかのウマを観察した。
やっぱり出来がいいのは、ヨークのソーアライクだ。フットワークを見ただけで、走ることがわかる。騎手の腕を考えれば、最強のライバルだね。
ついで、いいのは、25番のウマだ。確か、ヤマトンプとかいう名前だった。青毛の雄大な馬体で、強烈な前肢の書き込みが特徴だ。
ダートに向いていそうだが、こっちには芝しかないし、それにこれだけ馬力があれば、少々の不利なんか跳ねとばしそうだ。
次いで、5番のミサキーヌ。こっちは軽快で、スピードに長けている。
ほかには、7番のミハシリケシン、15番のラーン、30番のミックンも目立つ。
正直、ダービーに半端な仕上げで送り込んでくるような連中はいねえ。ウマの出来はピークだから、あとは純粋に実力勝負ってことになる。
さて、どこまでできるか。俺だって調子はいいが、俺のレベルがどれぐらいかはわからねえ。フリオーノブ賞を最後まで走りきっていればつかめただろうが、結果はあれだからな。
単なる二勝馬なのか。それとも大レースを勝つに値する実力があるのか。
ちと不安がよぎったところでチコを見ると、悠然と俺の背に乗っていた。微笑を浮かべながら。
はあ、何だ、この余裕。
驚いたね。これがちょっと前まで迷っていた女かよ。
開き直った天才はすごいね。というか、これが本来の姿なのか。
もういい。不安に思った俺がバカだった。お前といっしょなら、どこまでも行けるよ。
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