第48話 決戦と未来 #2

「あたしの事を気にかけてくれるのは本当にうれしい。でもね、ここで逃げても駄目なんだ。何も変わらない。それは、あたしが一番よく知っている。だって、この五年間、ずっと逃げつづけてきたから」

「チコ……」

「トーク、ううん、陛下がいなくなって、あたしは皆に裏切られた気がした。知っていていたのに、教えてくれなかったって恨んで、自分の世界に逃げ込んでいた。ウマの世話をするのに忙しいとか言って、何も考えないようにしていた。いつか勝手に世界が変わってくれるんじゃないかと思って」


 チコはミーナの身体を離した。その目はまっすぐに親友の顔に向かう。


「でも、それは間違いだった。あの日、陛下に会って、自分が逃げていたことを思い知らされた。何も変わっていなくて、どう話をしていいのかもわからなくて、頭が混乱して、その結果があれだった。絶対にやってはいけないことをやってしまった」


 チコは自分の気持ちを整理しながら話をしていた。間違ったことはやっていない。おそらく、チコは自分の本音を話している。


 だが、そこには大事なところが抜け落ちている。くそっ。わかっていないのか。


「今だって怖いよ。トークを目の前にしたら、どうなるかわからない。だから会いたい。でも、このままじゃ駄目。気持ちをしっかり封印して、前を向いて進まないと。そのためにも、あたしはここで逃げるわけにはいかないんだ」


 チコは笑った。何だよ、無理していることが一目でわかるじゃねえか。


「あたしはダービーに出るよ。全力で走る。だから見ていて」

「わかった。ちゃんと見ているよ。だから、無理だけはしないで」

「大丈夫だよ」


 ミーナが抱きつき、チコがそれを受け止める。


 静かな時間が流れていくが、それはどうしようもないほど、俺を不安にした。


 いよいよパドックに出て、ウマを引いている間もチコの表情は硬いままだった。無理に平静を保っているのが見てとれる。


 王様が姿を見せた時には、細かく手が震えていた。それを気づかれたなくて、力一杯握りしめたが、おそらくワラフにはわかっていた。ちらりと孫を見る目には、不安の色があった。


 王様はパドックで騎手や調教師と話をしたが、俺たちのところには近づいてこなかった。まあ、三十頭もいれば仕方ねえが、向こうもこっちとの距離を測り兼ねているように思えた。


 一度だけこちらを見たが、その目は妙に悲しげだった。


 騎乗の合図がかかり、チコが俺に乗る。そのままパドックを一周して、コースに入る。


「気をつけてな」


 ワラフが言葉をかける。それだけだが、気持ちはよく伝わってくる。


 俺たちはコースに出た。


 途端に歓声があがる。


 驚いた。とんでもない数の観客が集まっている。一万や二万じゃ効かねえ。


 少なくとも五万。多分、それ以上が集まって、俺たちを見ている。ターフビジョンもなくて、さぞ見づらいだろうに、よくもまあ。


 おそらく、国中から集まってきたのだろう。


 これが、この国のダービーか。すげえ。


 俺たちは観客から離れて、四コーナー付近に向かう。


 ほかのウマは返し馬に入ったが、チコは俺に合図を送ろうとはしなかった。インコースぎりぎりのところで、うつむいている。


 おい、チコ、どうした? 行かねえのか。


 広いコースにただ一頭、取り残されても、チコは動こうとしなかった。


 初夏の力強い日射しが、緑の芝に黒い影を刻み込む。


 風に流された雲が太陽を隠し、わずかに空気が冷える。


 スタンドから響く声が不思議と遠く感じたところで、チコは口を開いた。


「ねえ、あたし、どうしたらいいんだろう」


 俺が顔をひねると、大きく歪んだチコの顔が視界に飛び込んできた。


「このまま乗っていいのかな。先のこともちっとも考えられないのに。こんな中途半端な気持ちのままで、レースに行っていいのかな」


 なんだよ、それは。いったい、なんだ。


「トークのこともちっとも整理がついていないのに。いいのかな、これで」


 ふざけるな、バカ。いったい何なんだ。


 頭に来て、俺は後ろ足で立ちあがった。わざと、身体もひねってやったから、たちまちチコは背中から落ちた。


 観客から声があがる。


 コース脇に視線を向けると、ミーナが青い顔でこちらを見ていたのがわかった。

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