第47話 決戦と未来 #1
それからダービーまで、俺の運動は体調を整えるための乗り運動に限定されて、厩舎の回りを散歩する時間も短くなった。餌も特別製になって、体内にたまるエネルギーの量は明らかに増えていた。
空気がざわつき、厩舎の周りには張りつめた空気が漂うようになった。
騎手も調教師も仲間と会って話はするが、これまでよりも緊張感が漂うようになった。笑っているが、目は鋭いってやつかな。互いの腹を探っていた。
だが、不思議と敵意はねえ。皆、その日が来るのを待ちわびているのがわかって、そのあたりは気持ちよかったね。
そして、ついに訪れたダービー当日。
その日は朝から快晴で、心地よい風が競馬場周辺を吹きぬけていた。
観客も早くから訪れているようで、厩舎とスタンドはかなり距離が離れているのに、歓声が届いていた。
どのぐらい来るのかね。
日本ダービーだと、11万から13万ぐらいが訪れる。最大で19万人があの東京競馬場に押し寄せたというから驚きだね。よく入ったものだ。
こっちは桁違いに人口が少ないから、いいところ一万ぐらいかね。それでも、相当のお祭りであることに間違いないが。
朝からワラフが来て、自ら引き運動をして、調子を確かめた。
その間に、チコは騎乗の準備だ。男爵の計らいで、午前中の未勝利戦に乗ることが決まっていた。タンデートの騎乗ははじめてなので、コースの感触をつかんでほしいと思っているようだ。
午前中のレースがはじまると、観戦があがるスタンドとは対照的に、厩舎回りは静まりかえった。緊張感が高まるのがわかる。
きゅっと胃が痛い。だが、これがダービーよ。
ミーナが姿を見せたのは、昼過ぎだった。
「さあ、蹄鉄を打ち替えるよ。ほら、こっちへ来て」
お、今日のは特別製か。すごいな。
「ダービーだからね。この一回ですりつぶしていいから、思いきり走ってくるんだよ」
まかせておけ。お前の思い、無駄にはしないぜ。
俺が傍らに寄ると、ミーナは右足を取って、蹄鉄の打ち替えをはじめた。
「爪の具合はどう?」
チコが声をかけてきた。レースはすでに終わって、三着という成績だった。
「ここのところ、減りが早いって言っていたけれど」
「うん。かなり薄いけれど、ギリギリ維持できている。これなら、今日は大丈夫だと思う。ネマトンプに帰ったら、もう一度、様子を見るよ」
「そう」
「この子、頭いいね。蹄鉄を打つときは、ものすごくおとなしい。この作業がどんな意味を持っているのか、わかっているみたい」
わかっているよ。靴をしっかり履かずにレースなんかできねえよ。
「これで、エロい目で見てこなければ、最高なんだけどね」
いやあ、それは仕方ないんじゃないかな。目の毒というか気の毒というか。まあ、少しは気をつけるよ。
たちまちミーナは全部の蹄鉄を打ち替えた。おそろしく早い。
「どう」
「うん、大丈夫みたい。歩き方もおかしくないし」
チコは俺を引いて様子を見た。その表情は渋いままだ。
迷いが見てとれる。レースに気持ちが向いておらす、かなりヤバい感じだ。
そんなチコをミーナは腕を組んで見ていた。
「ねえ、チコ」
「何?」
「大丈夫なの?」
チコは答えなかった。足を止めて、その場でうつむく。
「まだ集中できていないよね。それでレースに行って平気なの?」
静寂が広がる。チコは何も言わずに、ただ立ち尽くしている。
ミーナはゆっくり俺に歩み寄って、その首筋をなでた。
「やめちゃってもいいんだよ」
「え?」
「出走取り消しにして、このまま帰っちゃってもいいってこと」
ミーナはまっすぐに、チコを見ていた。
「何だったら、何も言わずにこの場から逃げちゃってもいい。レース場から飛び出して、タンデートの町からも離れて、全然、知らないところに行って、名前も何もかも捨てて、まったく新しい生活をはじめるの。どう?」
チコは目を丸くしていた。何を言われているのかわからないようだ。
「あたしも付きあうからさ」
「ミーナ……」
「もういやなんだよね。フィオーノブ賞みたいなことは」
ミーナの声はわずかに震えていた。
「正直、レース前のチコには腹をたてていた。昔の男のことで動揺して、集中を欠いていた。ふわふわしていて、レースのことなんかまるで考えていなかったことがわかった。せっかく皆で仕上げたのに、それを台無しにするつもりなのかって。ぶん殴って引きずり下ろしてやろうかと思ったぐらい」
「……」
「でも、あの事故を見て、血の気が引いた。身体がふわっと舞って、そのまま地面に落ちて。しばらく息ができなかった。この子がかばってくれなければ、最悪の事態になっていかもしれない。もう、あんな光景は見たくない」
大事故であったことは、俺にもわかる。幸い大怪我をした者はいなかったようだが、それは単なる運だ。
落馬事故で命を落とした者は多い。
五年前には地方競馬で騎手が落馬で死んだ。中央だって、15年ばかり前に若手の騎手が落ちて頭を蹴られて、治療の甲斐もなく死んでいる。
助かっても、後遺症が残ることもある。世話になった先輩は落馬で神経を痛めて、いまだに右腕が動かない。当然、騎乗はできず、引退した。
骨折、打撲は日常茶飯事だ。
「今なら、まだ間に合う。だからさ……」
「ミーナ、待って……」
「あたしは平気だよ。何でもできる。女なんだから、いざとなれば……」
「落ち着いて」
チコはミーナの手を取った。その指を自分の右手で包みこむ。
「心配してくれるのはうれしい。だけど、もう少し冷静になって」
「ご、ごめん、あたし……」
「いいの、気持ちはちゃんと伝わったよ」
チコはミーナを抱き寄せた。額と額が触れあう。
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