第45話 錯綜 #2

 このおっさんのことだ。男爵様の素性など、とうにお見通しで、すべてをわかった上で付きあっていたのかもしれねえな。


「どれ、たまにはやってやるか」


 ワラフは馬房に入ると、俺の身体をブラッシングしはじめた。


 しっかりした手つきで、チコに比べると、荒っぽいがそれが心地よい。よこしまなことを考えずに済むのも素敵ですね。


 ワラフは首から背中、腹へと丁寧にブラシをかけていく。


「お前には、色々と面倒をかけたな」


 え、何のこと。いきなり過ぎて、よくわからない。


「チコのことだ。あいつのわがままに引っ張り回されて、申し訳なく思っている」


 そんなことはないよ。チコはいいやつで、俺の面倒をしっかり見てくれる。


 まあ、ややこしいところはあるが、前に付きあっていたキャバ嬢に比べれば、たいしたことはねえぞ。いきなり脚を踏みつけられたりしねえし。


 残念なことに、俺の思いは伝わらず、ワラフは重い声で先をつづけた。


「あの娘がああなったのは、儂にも責任がある」


 ワラフは、王様とチコの関係について語った。


「そもそも、俺がネマトンプで暮らすようになったのは、王宮からの指示があったからだ。当時、宮廷は先々代の陛下が体調を崩していて、その後継をめぐってきな臭い空気にあった。刃傷沙汰も起きていて、今の陛下に危険が及ぶことも考えられた。万が一に備えて、安全な逃げ場所を確保しておく必要があった」


 おいおい、ずいぶんとシリアスな話じゃねえか。さすがにきついぜ。


 ワラフが近衛騎士団を辞めて、ネマトンプで厩舎を構えたのは、綿密な計画に基づいてのことだった。


 実際、彼が危惧したとおり、クーデターが起きて、王様はネマトンプに逃げてきたわけだから、ねらいは正しかったわけだ。


 話が事実ならば、ワラフは中央の政界にもパイプを持つ大物軍人じゃねえか。その気になれば、王宮で権勢を振るい、軍隊の一個や二個はまかされるぐらいの。やっぱりただの調教師じゃなかった。


「このまま牧場主として生きていくのもよいと思った。純真な方だったから、その方が幸福だったかもしれん。だが、運命はあの方を逃がさず、結局、タンデートに帰還し、即位した」


 再クーデターで、王様になったが、まだ苦労はつづいていると言う。反抗的な貴族は多くて、その連合を食い止めるので精一杯らしい。


「先々の事を考えて、ネマトンプでは陛下の身分は伏せていた。チコはもちろん、本人にも知らせなかった。だから、気兼ねなく心を通わせ、幸せな時間を過ごすことができたのだが、チコには酷だったかもしれん。心を許しすぎてしまった」


 チコの両親は早くに亡くなり、ネマトンプに移った時には身内はワラフしかいなかった。不安に思ったチコが王様との関係を深めていくうちに、頼りに思ったのは仕方のないことだと思った。


 ワラフはブラッシングの手を止めた。その手が俺の背中に乗る。


「陛下と別れてからのチコはウマに夢中だった。世話をし、調教をつけ、レース場に連れて行く。さらには騎手としての訓練も積んで、いつでも出走できるだけの技術も身につけた。私はそれをあおった。ウマに目を向けることで、陛下のことを忘れてくれるのではないかと思って。だが、それは幻想だった。私はただ逃げていただけだった。腫れ物を治療することなく、ただ治るのを祈っていただけだった。それは間違いだった」


 確かに、あんたの扱いが微妙だったのはわかっているよ。遠慮していたのは、ウマである俺にもよくわかった。


 ほかにやりようはなかっただろう。あまりにも事件が大きすぎて、そこいらの人間にはどうすることもできなかった。そのあたりはあんたも同じだよ。


 あんたは、やることをやっていたよ。


 ちゃんとチコを見ていた。孫を慈しみ、何とかその痛みをやわらげるため、いつでも見守っていた。そのあたりは、ちゃんと伝わっているはずだぜ。


 俺にはわかる。あの娘はやさしいからな。


 首を寄せると、ワラフは苦笑いした。


「慰めてくれるのか。賢い奴だな」


 ふふん。もう、俺だってウマになってから長い。どうすれば、人が喜ぶかはわかっているさ。


 ワラフは軽く首筋を叩くと、馬房を出た。チラリと壁を見ると、手を振って去って行く。


「また明日な」


 おう。調教、よろしくな。


 さて、これで終わりと言いたいところだが、俺は厩舎の壁を見た。


 さっきから気配は感じているんだよ。さっさと、出てこいよ、天才。

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