第44話 錯綜 #1


 調教は無事に終わった。


 レースと同じコースで俺は最終調整を行い、体調を整えた。


 具合はものすごくいい。脚の動きはスムーズだし、身体も俺の思ったとおりにしっかり沈む。大地を蹴ると、これまでにない感じで加速する。


 調教だからトップスピードにはしなかったが、そこまでの動きに何の問題もないことが確認できた。


 腹の中にエネルギーがたまっていて、今にも爆発しそうである。


 本当にレースの瞬間が楽しみだ。


 調教を終えると、俺たちはコース脇で、記者のインタビューを受けた。こっちの世界にも新聞はあるらしく、ダービーについての特集を組むらしい。騎手が女性ということもあって、俺たちは注目されていたらしい。


 インタビューは短時間で、おもに答えたのはワラフだった。チコも訊かれていたが、質問は無難で、解答にも変わったところはなかった。


「ライバルはどのウマだと思いますか」


 記者の質問に対して、チコは強ばった顔で応じた。


「全部のウマが強いと思っています。ですが、やっぱりソーアライクは怖いですね」


 ヨークのウマだ。


 そうだよな。正直、さっき見た時、ぞっとしたぜ。


 乗り役の腕も考えれば、一番の相手だ。警戒はゆるめねえぜ。


 厩舎に戻ると、今度は貴族どもの相手だった。俺のことが気になったらしく、ひっきりなしに現れては、男爵様やワラフと話をしていく。


 なんか偉い奴もいたみたいで、男爵は気をつかっていたが、ワラフは堂々と対応して、失礼な質問にはきっちり文句をつけていたな。チコを表に出さないあたりはさすがだぜ。


 あとは主催者やら王宮の関係者やら、町のおばちゃんやらが現れて、落ち着いたのは夕方になってからだった。


「終わったな。何とも面倒なことだ」


 男爵様は厩舎に入って、俺の顔を撫でた。うわー、男になでられるの、最悪。


「うるさい奴も多かった」

「ダービーですから。それだけ注目されているということです」


 ワラフは淡々と応じる。ホント、このおっちゃんはどこでも変わらないぜ。


「本命は、侯爵様のウマだろう。ほかにも強いウマはいる」

「うちも負けていませんよ。そもそも、ダービーに出走できるだけでも、素晴らしいことではありませんか」

「運がよかっただけと言う者もいる」

「それでも、私たちは出走できたのです。文句を言うだけの外野を気にしても仕方がありません」

「そうだな」


 男爵はワラフに用事を頼んだ。彼が厩舎から出ると、残されたの俺と男爵様の二人だけとなる。


 彼はじっと俺を見つめてきた。

 おいおい、なんだよ。変なことはするなよ。鞭で打つとか、いやだからな。


 男爵が手を伸ばしてきたので、俺は下がろうとしたが、その目を見たところでやめた。驚くほど慈愛のこもった視線だったからだ。


「私のウマがダービーに出るのか。本当に。夢ではないのか」


 その手が俺の額をなでる。


「これほどうれしいことはないよ。本当にありがとう」


 男爵は、自分の祖父が競走馬を愛していて、自ら牧場を持っていて、ウマの生産を行っていたことを語った。繁殖牝馬だけで二〇頭を超えていて、広い牧場には常に若駒が駈けていた。


 男爵は祖父のウマに乗って、牧場のあちこちを見て回ったそうな。


「美しかった。あの光景は今でも忘れられない」


 そうだろうよ。俺だって、北海道の牧場に行った時は、一日中うろうろしていたよ。ウマが走る姿はいいよな。


「あれがいつまでもつづくと思っていたのだが」


 王宮の陰謀に巻きこまれて、祖父は所領を失い、失意のままに死んだ。父親は莫大な借金を抱え、耐えきれず、酒に溺れた生活に明け暮れた。男爵様が何を言っても聞かず、ある日の朝、グラスを手にしたまま死んでいた。


 残された男爵は、家を建て直すために懸命に働いた。領地を再開発し、新しい作物を植えて特産品を増やす一方で、ガラス製品の生産に力を入れて、タンデートやクリドランで売りまくった。ほかの貴族から金にうるさい馬鹿者と罵られても懸命に耐えて、商取引の拡大を図った。


 その甲斐あって、借金はすべて返済し、男爵の領地は国王からお褒めの言葉をもらえるぐらいに発展した。


 その男爵が競馬に関心を向けるのは、きわめて当然のことだった。厩舎を建て、調教師を雇い、ウマを買って、レースに臨んだ。


 ウマは自分で選んだ。これでいいと思ったのをたくさん買ったが、結果はなかなか出なかった。


 よくなってきたのはワラフを雇ってからで、ネマトンプの上級レースでほかの貴族の有力馬と戦っても勝てるようになった。


 それでも、タンデートで行われるトップクラスのレースには、手が届かなかった。


 ダービーなんて夢また夢で、その話題が出るたびに、みじめな思いを抱いていた。


「それが、ここにこうしている。もうすぐ夢がかなう。うれしいよ。こんなことって本当にあるのだな」


 何だよ、男爵様。変なこと言うなよ。


 あんたがそんな調子じゃ、こっちまでおかしくなっちまうだろ。いつものようにえばり散らして、俺にガンを飛ばされていればいいんだよ。


 まるで、いい人みたいじゃねえか。この野郎。


 なおも彼は話をつづけようとしたが、人の気配がしたので、口をつぐんだ。いつものように胸を張って振り向くと、ワラフが厩舎に戻ってきたところだった。


「終わりました。ほかに何かありますか」

「いや、もういい。では、後は頼んだぞ」


 腹を揺らしながら、大股で男爵は厩舎を去った。大柄にふるまっていたが、あれを見た後じゃ、思わず笑ってしまうよ。


 ワラフは小さく笑うと、俺を見た。


「ああいう方なんだよ。悪ぶっているが、根が善人だから、ちぐはぐになる。もう少し素直になれば、楽に生きられるのにな」


 何だよ、聞いていたのか。いやな野郎だぜ。


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