第40話 異世界競馬、再び #2

 俺はしばらく外に出されていて、ミーナが小川まで引っぱっていって、水を飲ませてくれた。厩舎に戻ったのは日が暮れる寸前で、すぐに餌が出てきた。


 腹がいっぱいになると、疲れたのか眠ってしまった。


 気がつくと、厩舎は暗くなっていて、わずかな灯りが俺の前を照らしているだけだった。


 夜に照明があるってことは、誰かいるってことだ。


 起き上がって顔を出すと、チコがいた。ランプを壁に掛けると、こちらに歩み寄ってくる。


 表情が暗いのは、闇夜につつまれているからではない。


 陽気なオーラが完全に消えていた。まるで幽鬼のように、身体に力がない。


 目にも力はなく、手足の動きも散漫だった。足元にも力が入っておらず、いつ蹴躓いてもおかしくなかった。


 チコは俺の顔をなでた。


「大丈夫? 今日、暴れたって聞いたけれど」


 声は小さく、重かった。いつもの陽気な語り口はどこにもない。


「怪我はしてないんだよね。よかった」


 そこで、俺はチコの右腕に包帯が巻いてあることに気づいた。左手の甲には擦過傷の跡があったし、こめかみにも小さな布が貼ってあった。


 あの時の傷だろう。すまねえ。俺がもう少しうまくやっていれば……。


「もう、あんな思いをするのは、いやだからね」


 チコの目に涙が浮かぶ。声が震えるまで、たいして時はかからない。


「ごめんね。あたしがあんな無茶をしなければ、怪我させることもなかったのに。ほかのウマも巻きこむことはなかったのに。全然、回りが見えていなかった。なんだか頭の中がぐちゃぐちゃになって、どうしていいのかわからなかった」


 俺は鼻を鳴らした。気にすると言いたかったのだが、チコは別の意味に取ったようだ。


「走りたいの? でも、もうちょっと待ってね。あれから、まだ一月しか経っていないんだよ。痛いところはなさそうだけど、本気の調教はもう少ししてからね」


 そうか。一月か。思ったよりも時間が経ったな。


 確か、フィオーノブ賞からダービーまでは、二ヶ月だったはずだ。となると、残された時間はそんなにはねえな。


「多分、ダービーには出ると思う。招待状が来て、男爵様はおおはしぎゃだったから。着ていく服はどうするかとか、どの貴族の宴席に出るかとか、そんな話ばかりしていた。万全にしておくように、おじいちゃんに行っていたから、すぐに準備ははじまると思う」


 チコは淡々と語る。


「おじいちゃんだって、ダービーには出したいと思っている。いつも、ダービーはどんなにすごいレースか話しているから。雰囲気からして、まるで違うって。朝から空気がざわざわしていて落ち着かなくて、それが時間が経つにつれて高まっていく。いつもはすました顔をする貴族様も、その日だけは別で、話をしていても、どこか上の空。同じことの繰り返しだって」


「……」


「レース直前まで興奮は高まる一方。出走馬がパドックに出て来て、周回をはじめるようになれば、皆の視線が集まる。出てくるウマの仕上げは最高。身体はピカピカに輝いている。ダービーだもの。手を抜く人なんて、どこにもいない」


 おう。


 俺も何度もダービーデーの競馬場で騎乗していたが、あの独特の雰囲気は頭にこびりついて離れねえ。


 違うんだわ。ホント、観客の顔つきからして。楽しんでいるようでも、どこか緊張感がある。声のトーンがほんの少しだけ高くて、それが気持ちの高ぶりを現していて、こっちまでテンションがあがってくる。


 関係者はもっとすごい。ダービー出走馬の馬主なんて、緊張で顔が強ばっている奴もいる。笑っていても、何か声が乾いていたりしてな。

 出走馬の馬体は、すべてピカピカ。


 チコの言うとおり、手を抜いてくる奴なんて、一人もいねえ。目一杯の仕上げで、本番に望む。


 ファンファーレが鳴って、各馬がゲートに入る。


 緊張の頂点に達したところで、スタート。横一線で、走り出す。


 ゴールまでは2400メートル。果たして、一生に一度のビッグレースに勝つのは、どのウマか……。


「一着で、ゴールを駆け抜けたウマは、拍手で迎えられる。王様も貴族も兵隊さんもそろって出迎える。ねえ、知っている? ダービーには、このレースにしか許されない特別な儀式があるんだよ」


 チコは静かに語った。


 へえー、そんなことがあるんだ。


 さすがに遊牧民の作った国だね。ウマと騎手に対する敬意が感じられるわ。


「表彰式が終わると、今までの緊張が嘘のように引いていく。タンデートに集まったウマは元の場所に帰り、そして、また新しい一年がはじまるの」


 次のダービーに向けて。それは、大いなる輪廻の世界だ。


 少しずつ積み上がった思いが次の世代に引き継がれ、新しい頂点を求めて激しく競い合う。


 正直、競馬の世界はきれい事だけじゃすまされねえ。


 なにせ、大金が動く。一億、二億が飛びかう鉄火場だから、うまい餌を求めて、口先ばかりの奴らがさんざんにうごめく。一回出し抜けば百万円なんてぐらいだからな。うまみを吸ったらやめられねえ。


 そもそも競馬がギャンブルなんだからよ。ハイエナはどこにでもいる。


 俺もさんざん嫌な光景を見てきた。


 おごってもらったこともあったが、高級ワインがさながら泥水のようだった。


 こんな奴らを遊ばせるために、乗っているんじゃねえって思えたよ。嫌気がさしたこともあった。


 それでも俺は留まった。聡史に対する思いもあったし、ほかにできることもなかったっていうのもあったけれど……。


 やっぱり、俺はウマが好きなんだよ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る