決戦と未来
第39話 異世界競馬、再び #1
白い霧につつまれていた意識が次第にはっきりしてくる。切れ切れだった言葉がようやくまとまってきて、思考が言語化できる。
どうなった、俺は……。
おぼえていねえ。何があった。
そうだ。ウマに乗っていた。俺は騎乗が仕事の騎手だ。
何のために乗っていた。レースか。違う。それは、もう少し先だ。
その前の調教だ。自分が乗る馬に稽古をつけていて……。
はっと、記憶の濁流が流れ込んでくる。
思い出した。俺はウッドコースで調教をつけていて、その時に事故に巻きこまれて、ウマに踏まれそうになって……。
目を開けて、俺は跳ね起きる。
左右を見回すと、板の壁が視界に入ってくる。相当に痛んでいて、右手の壁には今にも穴が空きそうだ。藁が奥に固まって積みあげられている。
天井を見れば、これもまた木だ。夕暮の日射しが周囲を照らす。
この光景には見おぼえがある。
全身を見回そうとしたところで、厩舎の扉が開いて、白衣を着た女の子が飛び込んできた。少し走っただけで、大きく胸が揺れる。
「ちょっと、今の騒ぎ、何?」
ミーナだ。顔を強ばらせて、俺のところに駆けよる。
「何かあったの?」
彼女は馬房に入ってきて、俺の首筋をさかんになでる。
何だよ、その不安そうな顔は。大袈裟だろ。ちょっと騒いだけだ。
違和感をおぼえて、俺はいななく。
その時、気づいた。
俺は戻ってきた。
あの異世界に。
ウマになって。
「落ち着いて。大丈夫だから」
「どうした?」
ワラフが姿を見せた。いかつい顔には動揺がある。
お前もかよ。いったいどうした?
「わかりません。何か突然、いなないて」
「暴れたか」
「それほどでも。でも、何かいやな感じで」
「大丈夫だ。ほら、平気だぞ」
ワラフも馬房に入ってきて、俺の身体をなでた。
「一回、外に出そう」
ミーナがうなずいて引き綱をかけると、ワラフが扉をあけた。二人に導かれるままに、俺は丘の上に出た。
朱色の輝きが辺りを照らしている。緑の大地は夕陽に彩られて、さながら黄金の砂をまき散らしたかのように輝いていた。
前にも見た。俺は間違いなくここにいた。
俺が動かなくなったのを見て落ち着いたと思ったのだろう。ミーナが大きく息を吐いた。
「よかった。また暴れるかと思った」
「事故の影響が残っているのかもしれん。怪我はもう直っているが」
ワラフは丹念に俺の身体を見た。
「脚も平気だな。爪はどうだ」
「変わりありません。割れているところも欠けているところもありません」
ミーナは俺の身体にもたれかかった。
「よかった。怪我したら、どうしようかと」
「気にするな。フィオーノブ賞の時もあれだけ転倒したのに、切り傷が三つで済んだんだ。ほかのウマに踏みつけられて、ボロボロになっていてもおかしくないのにな。この子は運がいい」
そうか。やっぱり俺は、あの時、転んだのか。
トップスピードで走っているところで、横にひっくり返って、ほかのウマに身体をさらせば、何が起きてもおかしくない。俺たちの世界でも、落馬で人馬に深刻な多ダメージを残すことは珍しくない。
俺は改めて周囲を見回す。
なだらかな斜面が右手方向に広がる。中央には右に曲がりながら下っていく道があり、今は荷馬車がそこをゆっくりと歩いていた。
斜面を下った先では、ウマが集まって小川に頭を突っ込んでいる。
上空を見たことのない鳥が舞い、寂しげな声をあげる。
俺は帰ってきた。自らの脚で大地を駆けめぐっていたこの地に。
気分が落ち着いてくると、色々な事が気になってくる。
ここに帰ってきているということは、レースが終わってから、かなり時が経っているのだろう。
どれぐらい経ったのか? 今はどういう状況なのか? それと……。
チコはどうした?
「あの時は、息が止まりました」
ミーナの顔は、夕日に照らされているにもかかわらず、まっ青だった。
「この子が横に転んで、チコが飛ばされて。ほかのウマも巻きこまれて。もう駄目かと思いました」
「私も最悪の事態が頭をよぎったよ。だが、幸い、この子は無事だった。ほかのウマもな」
それはもうわかったよ。チコはどうなっているんだ。平気なのか。
「レース後にほかの騎手や調教師から文句をつけられたが、結局、事故ということで済んだ。ほかの騎手も、あの開いた一点に向かっていたからな。チコだけが責められる流れではなかった。ヨークもそう言っていたしな」
「幸い、人馬ともに無事で、私たちはこうして戻ることができた。幸運に感謝するべきだな」
どうやら、チコは無事らしい。
でも、だったら、どうして顔を出さない? 普段だったら、一番で駆けつけてくるのに。
「レース直後は大変でしたね」
ミーナは芝生に腰を下ろした。ようやく気持ちが落ち着いてきたらしく、髪を梳く仕草にも余裕がある。
「大暴れしちゃって。今までの落ち着きがまるでなくなって。まるで別のウマになったかのようでしたね」
「あれだけの事故に巻きこまれたんだから仕方ないさ」
いやいや、実際、別のウマだったんだよ。俺がいなかったんだから。
二人はしばし夕陽を見つめていた。さわやかな風が丘を吹きぬける。
「この先、どうするんですか」
ミーナは俺を見あげた。
「この子、ダービーに出走できるんですよね」
「ああ。昨日、正式に招待状をもらったよ」
何だとう。それは本当か。
「帝国との衝突も回避されて、無事に開催が決まったからな。例の事故もあって、フィオーノブ賞に出走したウマは、特例でダービーへの優先出走権が与えられた。うちも、それにあやかった」
「頭数が多そうですね。どれぐらいですか」
「32、3頭というところだな。ここ最近では多い方だが、俺たちが若い頃はこれぐらいが普通だった」
うわー。30頭越えかよ。まるでグランドナショナルだな。
さすがに、そんなレースは経験したことねえぞ。いったい、どうなるんだ。
それでも念願のダービーには出走できる。選りすぐりの優駿にしか許されない場所で、この世界のホースマンにとっても憧れの地であるはずだ。
なのに、どういうわけだ。二人はちっともうれしそうじゃないね。
「出るんですよね」
「出したいという思いはある。男爵様もそのつもりだ。だが、今のままでは、ちょっとな」
「すべてはチコ次第ですか」
ワラフは応じず、ただ夕陽を見つめる。
不穏な空気が漂う。いったい、何なんだよ、これ。
気になる。チコはいったいどうしちまったんだ。
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