第37話 夢のつづき #1

 時は過ぎて、週末となった。


 こんな俺でも騎乗依頼してくれる厩舎はあって、土曜日だけで三鞍に乗ることができた。まあ、朝一からって言うのが、少々しんどいがね。


 競馬場に入ると、俺はさっさと仕度して、ざっとコースを見て回る。


 今日の開催は中山競馬場。金曜日に雨が降ったこともあって、芝コースもダートコースも湿っている。芝コースは内側が痛んでいて、力が要りそうだ。


 あっという間に、第一レースの時間になって、俺はパドックでウマに乗り、コースに出た。返し馬をして、待機所で待つ。


 その間、俺は真理の言ったやり残しについて考えていた。


 異世界でのことは気になる。この身で体験しているからわかるが、あれは夢物語じゃねえ。確かに、俺はウマになって、あの世界を駆けめぐっていた。


 チコはいたし、ミーナもいた。ヨークの糞生意気な面もおぼえている。


 風が吹き、草の匂いが立ちこめた時のことも。


 ウマを慈しみ、レースに賭ける思いは同じで、俺もできることをやっていた。


 いや、違うな。俺はあの世界にいながら深くかかわろうとはしなかった。


 ウマであることを理由に、傍観者を決め込んでいた。


 それがよかったのか、悪かったのか。いきなりウマになった身では動揺が先に立ってできないことも多かった。だが、時が経ち、回りが見えてきても俺は……。


 そこで、ファンフーレが鳴った。発走時間だ。


 切り替えて、俺はウマを誘導する。三歳馬で、すでに五度のレース経験があり、ちょっと合図するだけで、するするとゲートに入っていく。


 大外一六番のウマが入って、準備完了。


 レースは芝1600メートル。二歳未勝利戦で、能力はほぼ同じ。


 あとは、ウマの調子と俺たち次第。


 息を詰めたところで、ゲートが開いた。


 蹄の音が響いて、いっせいにウマが飛び出していく。


 一番のウマが前に行ったこともあって、レースは思いのほか流れる。ちょっと早めのペースだ。


 俺のウマは五番手の内側。悪くねえ。


 前を見ると、宮内のウマが三番手につけていた。リラックスした姿勢で、騎乗している。まったく、ソツがないね。


 三コーナーに入ったところで、レースが動く。


 俺の後ろにいた二頭が前に出て、先頭に近づいていく。


 それを見て、宮内もウマを前に出す。


 俺はちらと右前方を見る。インコースに一頭分の隙があり、思い切って突っ込めば前に出ることが可能だ。だが……。


 俺は手綱の手応えが弱くなっていくのを感じていた。


 もう、走る気を失っている。少し右に寄れているのは苦しがっているからだ。


 くそっ。だめか。


 軽く鞭を当てたが、動きは変わらない。


 馬群は三コーナーから四コーナーを回り、直線に入った。


 いっせいに騎手が鞭を振るい、ウマが加速していくが、こっちはまったくついていけねえ。下がっていくだけだ。


 どこへ行くかと思ったところで、後ろから声がした。


「どいて! どいて!」


 若い、どこか子供っぽさを感じさせる響きだ。


 本命の6番に乗っているのは二年目の若手で、後方に待機して突っ込もうとしたのであるが、道が空かずに困っている。


 目の前は壁だ。このままじゃ脚を余して負ける


 しゃあねえな。


 俺は左右をチラチラ見てから、ウマを左に寄せて一頭分の道を作った。


 途端に、栗毛のウマが飛び込んできて、かわしていく。


 すさまじい脚だ。


 たちまち俺の前で争っていたウマに追いつき、抜き去る。


 最後に宮内のウマを半馬身かわしたところが、ゴールだった。


 俺のウマはそのはるか後、下から数えて三番目で入線した。


 スピードを落として、一コーナーに入っていく。ウマの呼吸を整え、足を止めたのはしばらく経ってからだった。


「あの、ありがとうございました」


 高い声に顔を向けると、勝った若手の騎手がウマを寄せてくるところだった。


「道を空けてもらって、すみません」

「別に譲ったわけじゃねえよ。俺のウマは脚がなくて、無理しても仕方なかった。だから、ちょっと寄せたそれだけよ」


 俺は若い騎手を見やった。


「それより、あそこで控えていてどうするんだよ。前に行っていた中田さんと赤目さん、あの二人が仲が悪いことは知っているだろ。絶対に譲らねえから、あそこは開かないんだよ。もう少し考えて乗れよな」


 若い騎手は驚いていたが、ウマを動かしながら頭を下げた。


「ありがとうございます。あの、何かあったんですか」

「ああ。何がだよ」

「いえ、前には、絶対にそんなことは言わなかったので。道を譲ってくれることだってなかったし」


 少しでも前に出て、少しでもよい成績をあげることだけを考えていた。


 人のことを考える余裕なんてなかった。いや、考えないようにしていたのに、なぜ今になって……。やっぱり俺は変わってきているのか。


「俺だって、仏心を出すことはあるんだよ。次はねえからな」


 若手から離れて、俺はゆっくりとウマを歩かせる。


 コースを出て、検量所の前まで行くと、小山のおっちゃんが待っていた。俺はさっと降りると、鞭を回しながら言った。


「駄目だよ、おっちゃん。こいつ、まだ腰が入っていねえ。流れには乗れても、踏ん張りが効かないよ。もうちょっとかかるね」

「そうか。だいぶ良くなったと思ったんだが」

「無理はさせていねえから、また走れるだろ。その時は、今よりマシなはずだ」

「そうか。気を使ってくれたか。前のお前ならば、ウマを壊してでも上の着順を目指していたのにな」


 そうじゃねえよ。俺だって、いけると思えば、無理をさせるさ。


 だが、駄目な者をいくら引っぱったいても駄目なのさ。よくなるとわかっているのに、強引に振り回したっていいことはまるでねえ。それだけだよ。


 俺は検量室に行こうとしたところで振り向いて、ウマの足元を見た。


「蹄鉄、変えたのかい」

「こいつとアイリスな。どうだった」

「いい仕事だ。前よりも、蹴る力がしっかり伝わっていたよ」


 やるじゃねえかよ。口だけじゃなかったな。



 その日のメインレースにはアイリスカップが出走。六番人気の低評価ながら、見事に勝利した。


 騎手は宮内。後方二番手からのごぼう抜きで、最後には二馬身の差をつけていた。


 フットワークが前に乗った時とはまるで違っていた。宮内もインタビューで、これならば大きいレースでもいい勝負ができると答えていた。


 美奈は小山のおっちゃんに褒められて泣きながら笑っていた。それは、見ているだけで気持ちのよくなる、心地よい表情だった。



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