第36話 悔恨 #3

 あの日の事は今でもおぼえている。


 久しぶりに真理に連絡を取り、そこで俺は聡史が引きこもりになっていた事を知った。三年も外に出ていないと言う。


 なんだ、そりゃと思った。だらしねえ。二〇歳過ぎて、家から出られないって馬鹿かよ。引きずり出して説教してやる。そんな感じだった。


 俺は堂々と乗り込んでいって、部屋のドアを叩いた。


 今からすると、あの時、あいつが顔を出したのは、最後の希望を託してのことだったんだろう。引きこもりで、何もできない自分に嫌気がさしていて、何とか明日への一歩を踏み出したいと思っていた。


 すがるような瞳は、その現われだった。


 なのに、俺はすべてをぶち壊してしまった。さんざんに説教し、あいつがいかに役たたずか語った。


 大切にしていたウマの知識も否定した。現実と単なる頭の知識は違う。乗らねえお前には何もわからないよとまで言い切った。


 聡史は何も言わずに聞いて、最後にぼそっとつぶやいた。


「わかった。なら、外の世界を見に行くよ」


 俺は、それを引きこもりからの脱出と介錯した。


 半月後、聡史は死んだ。


 夜中に外に出て、車にはねられた。車通りの少ない道で、信号を無視して渡った結果だと言う。


 俺は驚き、落ち込んだが、それでも何とか耐えられた。


 罪悪感をおぼえたのは、聡史の実家から俺宛の荷物が届いた時だ。


 そこには、デビューしてから、俺がどのようなウマに乗り、どのようなレースをしたかが細かく記されていた。着順やレース後のコメントもあったし、雑誌の特集記事で語ったこともまとめてあった。そして、すべてのレースに、あいつの感想が書かれていた。


「もう少しだった。前が空いていれば勝った」


「ベストレース。うまくなった。これで弾みがついた」


「G3を勝った。ウマの能力は互角だった。勝たせたのは勇の腕だ」


 その時の思いが熱く語られていた。俺の忘れていたこともたくさんあった。


 そして、最後には、殴り書きでこうあった。


「あいつのレースを自分の眼で見たい。見たいよ」


 俺は、自分のしでかしたことに気づいた。取り返しのつかないことをした。


 あいつは俺に助けを求めていたのに、気づかないまま拒絶していた。わずかにあった可能性をへし折ってしまった。


 それ以来、俺は自棄になって、競馬に身が入らなくなった。成績は下がり、騎乗依頼も減ったが、どうでもよかった。


 女と遊んでいても、どこか上の空だった。そのうち相手にされなくなった。


「もうちょっと俺が大人だったら、よかったな」


 俺はつぶやいた。


「うまくやっていれば、今頃、あいつだって」

「何を言っているの。あなたがガキなのは、ずっと昔から変わらない。あたしの尻を触った時からね」

「だから、触ってねえって言っているだろ。しつこいな」

「だったら、いっそガキのままでいればよかったのよ。中途半端に大人になったから、説教をかましたりした。どうにかしてやろうなんて上から目線で考えてね。傲慢がすぎたわね」


 俺は横を向いていた。ムカつく。


「思ったことをそのまま言えばよかった。あの騎手は下手くそとか、あの人には世話になっているとか。この馬はよかったけれど、降ろされてしまって悔しいとか。いつか、あのレースに乗って勝ってやるとか。それだけで十分だったのよ。先の事なんてどうこうしなくてよかった」

「大事なのは今だったってことか」

「そう。あの時のあなたをそのまま見せてやればよかった。ガキのままのね」


 真理は小さく息を吐く。


「それは、あたしも同じ。もっとガキでよかった。聡史を何とかしてやろうなんて思わずに、日々の不満でもぶちまけてやればよかった。あの頃、両親とうまくいってなくて、見栄を張ったのがよくなかった」

「お互い、どうしようもないぐらい中途半端だったってことか」

「おかげで、大事なものを失った」


 真理は横目で、俺を見た。


「でも、いつまでも、このままじゃいられない。でしょ」

「ああ。そうだな」


 過ぎたことは取り戻せない。ならば、受けいれて生きていくしかない。


 パーフェクトになって、絶対にできない。傷が癒えることは決してない。


 ならば、生傷から血を流しながら、ただ前に出るだけだ。あいつはいたという思いを胸に抱きながら。


 それができてこそ、少しは成長できる。そう思いたい。


 道は空いていたので、明るいうちにトレセンに戻ることができたが、まあ、好き放題に走ってくれた。


 入場ゲートの前で、俺は車から降りると、思わず毒づいた。


「飛ばしやがって。仙台から美浦まで二時間ってどうだよ」

「慣らしておきたかったの。今度、ドイツに行くから」


 運転席に座ったまま、真理は言った。


「向こうで仕事しないかって言われている。海外に出るのは、夢だったからね。ちょうどいいかも」

「そうか」

「あんたはどうなの。やりたいことはあるの?」

「どうだろうな」


 聡史が死んで、騎手としての俺は終わった。今はだらだらと生きているだけだ。 やり残しと言えば……。


 ふと、夢の中での事が頭をよぎった。


 謎の異世界で、ウマとなって走っていた頃。何が何だかわからないままに、もう全力を尽くしていた。


 あいつらはどうしているのか。


 ワラフ、ミーナ、ヨーク。そして、チコ。


 あいつはあの時、泣いていた。過去の傷に耐えきれず。


 そのままレースに挑み、そして落ちた。


 あの時、俺は何もできなかった。苦しんでいるとわかっていながら、ただ見ているだけだった。


 ウマだったから、何もできないだろうって。


 それは違う。違うんだ。俺は何もしようとしなかった……。


「よかった。何かこだわりがありそうね。だったらやっておきなさいよ。後悔しないうちに」


 真理は笑った。それは久しぶりに見る、いい表情だった。


 そういえば、こいつどこかチコに似ているな。楽しそうな時は特に。


 俺がじっと見ていると、真理は首をかたむけた。


「どうしたの。何か、顔についている?」

「いや、なんて言うか。いい女になったと思ってな」


 照れくさくなって、俺の声は大きくなった。


「あーあ、こんなことなら、一発やっておけばよかった」

「バカ。あんたがその気だったら、いつでもできたわよ」

「え?」

「もう遅いけれどね」


 真理は軽く手を振って、車を走らせた。


 その姿が見えなくなるまで、俺は入場ゲートの前で、何もできずにたたずんでいた。



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