第33話 帰還 #4

「はい?」


 娘は足を止めて、振り向いた。


「何か用ですか」

「用って、えっ、何でだ」

「え、だって、今、私の名前を呼びましたよね。あたしは新川美奈しんかわみな。小山先生にはお世話になっていて、ちょくちょく厩舎に顔を出させてもらっています」

「新川って言ったよな。それは、あの装蹄師の……」

「はい。娘です」


 新川さんは美浦の装蹄師で、国内のみならず、海外でもその名を知られていた。新川さんが蹄鉄を打ったウマは、数多くのG1を勝ち、アメリカや中東でも好成績を残した。


 最新の技術を導入することにためらいがなく、接着装着も早くから試していた。


 人材を育てることにも積極的で、十人以上の装蹄師を育て上げ、日本各地に送り込んでいる。


 もう六十を過ぎているはずだが、いまだ現場に立ち、調教師や獣医師と話しあって装蹄作業を行っている。レジェンドと云っていい人物だ。


 娘がいるとは聞いていたが、こんなに若いとは思わなかった。


「あっと、俺は……」

「武田勇さんですよね。父から話は聞いています。遊び歩いてばかりのしょうがない奴だが、腕はよくて、競馬を見る目はあるって」

「あ、そりゃあ、どうも」


 新川さんとは、もう何年も話をしていない。正直、おぼえてくれているとは思わなかっただけに、意外だった。


「それで、君は……」

「父のところで装蹄師をやっています。といっても、見習いですけれど。小山先生には自由にウマを見ていいって言われるので、時々、お邪魔しているんです」


 そう語る姿は、やっぱりミーナに似ていた。不思議なものだ。


 美奈はアイリスカップの馬房まで来ると、その足元をじっと見た。二分、三分と目を離さない。


「気になるのか」

「ええ。この子、爪が薄いんですねよ。力を入れて走るから」

「蹄鉄は接着だろう。なら、昔みたいに割れることはないはずだ」

「元が弱いから、ちょっと無理するとおかしくなっちゃうんです。小山先生も裂蹄を気にしていました」

「割れたらしんどいわな」


 裂蹄はよくある故障の一つで、蹄が割れて亀裂が入ることを言う。縦に割れるのと横に割れるのがあり、一般的には後者が厄介だ。発症すると、痛みが出て、満足に走ることはできなくなる。


 原因は、いろいろあって、簡単には言えない。体質的に弱いウマもいるし、左右のバランスが崩れていて、力の入れ加減が違うことからおかしくなるウマもいる。


 日本の至宝と言われた名馬は、走る時の蹴り出しの力が強すぎて、爪がひどくうすく、常に裂蹄の危機にあったとも言われる。


「親父さんはなんて言っている?」

「様子を見るって。だいぶよくなってきたから、無理はさせたくないみたいで」

「でも、あんたはそうは思っていないようだな」

「どうして……」

「顔にそう書いてあるよ」


 美奈はうつむいたが、すぐに顔をあげ、アイリスカップを見た。


「この子、蹄が左右非対称だったんです。仔馬の頃は、相当にひどかったんでしょうけど、それを早いうちに直して、厩舎に入る頃にはほとんど気にならないぐらいになったんだと思います。それでも、元が非対称だったんで、走る時の力の入れ方に癖がある。それが爪の弱さにつながっていて、今まで足元がよくならなかった原因じゃないかなって」


 一気に喋る美奈の声には、熱がこもっていた。


 馬への思いが見てとれる。この子は年がら年中、ウマのことを考えて、少しでもウマのためにできることはないかと知恵をめぐらせている。


 一頭だけではない。自分の目に入るウマを少しでもよくするために、自分のすべてを賭けている。生まれながらの装蹄師だ。


 まったく、そういうところもよく似ている。ミーナも時間さえあれば、ワラフのウマたちを見ていたっけな。


「対策はあるのか」

「ありますけれど……あたしは、見習いなんで」


 美奈はうつむいた。自信のなさげなふるまいが、俺の癇に触った。


 あいつなら、そんな言い方はしない。ちゃんと考えての結論だったら、必ず口にする。そして、自分のやるべきことをやって、世界を変えていく。

 だったら……。


「見習いもくそもねえだろ」


 俺は横目で美奈を見た。


「お前は何だ。装蹄師だろう。装蹄師であるお前が考えに考えた末に、こうすればアイリスがよくなるって結論を出したんだろう。だったら、そうしたいって言えよ。黙ってちゃ、何も伝わらないぜ」


 美奈は、俺を見ていた。その目は大きく開かれている。


「やりたきゃやれよ。少なくとも、俺の知っている装蹄師はそうしていたぜ」

「で、でも、私は見習いで、経験もなくて……」

「理屈をごねるな。自信はあるのか、ないのか。どっちなんだ」


 美奈はすっと息を吸った。その瞳に力が宿る。


「あります。この子のことはずっと見てきましたから」


 いい顔だ。そうだ。それでいいんだよ。


 ミーナもあの時、同じ顔をしていた。それで見事にやり遂げた。


「小山のおっちゃん、今ならいるぜ。さっさと話をしてこいよ」


 美奈は頭を下げると、速歩で事務室に向かう。


 俺が馬房をのぞきこむと、アイリスがこちらを見ていた。何だ、やるじゃないと言っているように見えたが、思い込みかもしれない。


 妙な話だ。俺が人の背を押すなんて。変に仏心を出してよ。


「頃合いなのかもしれねえなあ」


 人のことにかまっている場合じゃない。


 そろそろ、自分のことに決着をつけねばならない。逃げ回っていても、何もはじまらないのだから。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る