第32話 帰還 #3

 俺がすたすた先に行くと、宮内もついてきた。


「おい。何だよ、ついてくるなよ」

「いいじゃないですか。どうせ、行き先は小山厩舎でしょ。俺も先生に挨拶しておきたくて」

「あん、トップジョッキーが年間十勝そこそこのの弱小厩舎に何の用があるんだよ?」


 小山厩舎は美浦の南馬場にある厩舎で、調教教師は今年で六十七才になる小山春蔵しゅんぞうだ。


 いちおう先生と呼ばねばならないのだが、どうにもそんな気になれず、ついおっちゃんと声をかけている。


 一度、ちゃんとしようと思って、先生と呼びかけたら、世にも奇妙な物体と出くわしたような顔をされて、頼むから変な呼び方はしないでくれと言われた。頭に来て、以後はずっと小山のおっちゃん扱いだ。


 開業は二〇年前のことで、開業してしばらくの間は重賞勝ち馬を数多く管理していたが、ここ最近は勝ち星がぐっと減って、G1レースに出走することもほとんどなくなった。注目度は低いが、たまにオープン戦で人気薄で勝ち、ファンをあっと言わせる。


 今、管理しているのは22頭。大手の牧場や有名な馬主のウマはおらず、ほとんとが小さい個人馬主。それも、おっちゃんと長く付きあってきた連中だけだ。


 特定の牧場や馬主が好成績をあげる状況下では、苦しい立場だが、厩舎スタッフはあまり気にした様子はなく、楽しそうに仕事をしていた。


「あの厩舎、おもしろいですよ。来る者は拒まず、去る者は足を引っ掛けてでも引き留めるって感じですから」

「まったく。犬でもネコでも人でも来る者は、全部拾っちまう。あれ知っててやっているんだから、質が悪いぜ」

「この間は、騎手も拾ってましたね。一人、抱えているのに」


 小山厩舎は、三年前に若手の騎手を、引き受けていた。俺と同様に、競馬界にまったくコネのなく、どうしていいのかわからずにいるところで声をかけたらしい。熱心ではあるが、決して腕はいいとは言えず、成績は今ひとつだった。


 そこに、さらに別の厩舎を放りだされた騎手を引き取った。


 クビになったのは時間にルーズという事だったが、それ以前に色々とトラブルがあった。ちょっと調教師が厳しすぎたのが原因だったと思う。

 で、その騎手を引き取ったのが、小山のおっちゃんだった。


 ただでさえ若手が一人いるのに、もう一人、所属にするなんて、賢い人間のやることではない。金が余っていて、ベンツを何台も乗りまわすような調教師ならともかく、遠征を繰り返して、ようやく一勝という零細では、正直、苦しい。


「それでも、やっちゃうのがおっちゃんなんだよなー」

「まあ、おかげで、その騎手も最近は成績も安定してきて、先のことが考えられるようになったじゃないですか。腕の方はまだまだだけど」

「お前と比べたら、誰でもまだまだだよ」

「あの厩舎へ行くと、気分がよくなるんですよ。皆、楽しそうに仕事をしていて」

「あれで、成績がよかったら、言うことはねえがな」


 あちこちでトラブルを起こして、俺の騎乗数が減った時にも、小山のおっちゃんは気にかけてくれて、馬主を説得して乗れるように手配してくれた。大事なレースをまかせてくれる時もあって、その時にはさすがに男気を感じた。

 

 やってやろうって気になって、きっちり勝ったよ。


 厩舎にたどり着くと、ろくに挨拶もせずに扉を開けた。


「おっちゃん、元気かい」

「おう、勇か。身体の方は大丈夫なのか」


 事務室の奥に座っていた爺様が立ちあがった。髪は白く、額には皺が目立つ。


 それでも背筋はしゃんとしており、定年までは仕事をやっていけそうだ。


「このとおりよ。さっさと病院から追い出されちまった。これからもよろしくお願いしまーす」


「武田の舎弟でーす。こちらもよろしくお願いします」


 宮内が頭を下げて、事務室に入ってきた。


 わっと声があがり、話をしていた厩務員や調教助手が笑顔で歩み寄っていく。さすがはトップジョッキーと言いたいが。


 ちっ、何だよ、随分、待遇が違うじゃねえかよ。


「おっちゃん、ウマ、見てくるぜ」


 とっとと俺は、事務室を出て、馬房に向かう。


 ウマは調教を終えたばかりで、のんびりしていた。横になっているのもいれば、顔だけ出して、さかんに左右を見回しているのもいる。


 視線があったのは、栗毛の牝馬だった。額の星が実にかわいらしい。


「おう。アイリス、元気だったか」


 俺が顔を近づけると、ウマは露骨にいやな顔をした。何だよ、それ。


 アイリスカップは四歳の牝馬で、成績は十戦三勝、二着二回だった。


 とにかく足元の弱いウマで、初出走は三歳の四月だった。有力どころが桜花賞に向かうところでひっそりとデビューして、八着だった。


 放牧と入厩を繰り返し、何とか足元がよくなったのが七月。八月の新潟で、六番人気で初勝利を収めた。


 その後は、長い休みに入って、復帰したのが今年の一月。いきなり一勝クラスで二着して、能力の高さを示した。


 二勝目の時には、俺は乗れなかったが、あざやかに差し切る姿を見て、柄にもなく感動しちまった。


 アイリスの隣には、未勝利の三歳馬がおり、所在なさげに馬房で立っていた。足にはバンデージが巻いてあり、苦労の様子がうかがえる。


 そのまま隣の馬房に移ろうとしたところで、建物の陰から髪の長い女が出てくるのが見えた。黒いシャツにジーンズ、さらには大きめの白衣という格好だった。


 年は二〇代前半だろう。色白で、顔の輪郭は触ってみたくなるぐらい丸い。


 大きな眼鏡をかけていて、それが減点材料だった。コンタクトにすれば、もう少しモテるだろうに。


 女は、俺を見ると一礼し、ついで、馬房のウマを見て回った。中に入ることはなかったが、時間をかけて丹念に様子を確かめている。


 どこかで見たことがある。いったい、どこだったか。


 ぼやけていた記憶が呼び起こされたのは、その娘とすれ違った時だった。


 整った横顔と眼鏡を見た時、俺は思わずつぶやいていた。


「ミーナ……」


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