第31話 帰還 #2
俺は仕事場は、美浦トレーニングセンターっていう、でっかい調教施設だ。茨城県美浦村にあって、広さは約448万平方メートル、東京ドーム48個分になる。
そう言われても、ぴんと来ねえよな。俺だって、よくわからねえ。
とにかくでかい。端から端まで歩いて行こうなんて思わない方がいいね。
ここには、中央競馬に所属するウマが暮らしていて、さまざまな施設で、日々調教を受けている。頭数は2427頭で、二才から十才までと年齢は多様だ。
ちなみに、滋賀県栗東市にも似たような施設があり、そっちは栗東トレセンの愛称で知られている。
大雑把に言って、美浦トレセンのウマが関東馬、栗東トレセンのウマが関西馬と呼ばれるね。
美浦トレセンの調教施設はすごくて、本番に近い芝コースやダートコースはもちろん、負荷をかけて身体を鍛えるウッドチップのコースや最大斜度四.四六パーセントの坂路、脚への負担が少ないトレーニングプールがある。厩舎によってはウォーキングマシンを用意していて、人手をかけずに運動ができるように工夫もしている。
関係者は調教師が約100人、騎手が約70人。さらにウマの面倒を見る厩務員が460人に調教助手が750人だ。これに、関係者の家族や競馬界の職員、さらには関連企業の人員も含めて、約5000人がトレセンとその周辺で暮らしている。これは、美浦村の住人の三割になるんだってさ。
まあ、一箇所に関係者も施設も集まっているから、管理はしやすいわな。独身寮とか、騎手寮もあるし。ここから一歩も出ないでも生活できる。
俺は息苦しくて、しょっちゅう遊びに出ていたけれど、それでも家はトレセンの近くにあったし、知り合いの寮に泊まり込むことも珍しくなかった。
何のかんの言っても、ここにいると落ち着くのよ。
静かなんだけど、微妙に人いきれが感じられてさ。
そんなトレセンを一人で俺は歩いていた。退院したことを知らなかったのか、顔を見ると驚かれたけどさ、気さくに声をかけてくる調教助手もいて戻ってきたことを実感したよ。
慣れなかったのは、二本の脚で歩くこと、それと、速度が思ったよりも遅いことだ。
目が醒めた時には、あれは夢の世界の出来事だと思ったが、時間が経つにつれて実感がこみあげてくる。
違うな。あれは、本当にあったことだ。
まやかしじゃねえ。
脳裏には、落ちていくチコの顔が焼きついている。痛みが走る。
俺が手を握りしめたところで、よく透る声が響いてきた。
「あっ、勇さんじゃないですか」
顔を向けると、赤のジャンパーに黒のパンツの男が走ってくるところだった。赤いキャップをかぶり、脇には鞭を抱えている。
さわやかな笑顔だ。顔立ちが整っているから、それが異様なまで引き立つ。
まったく、これで。いったい、これでどれだけの女を引っ掛けてきたのか。
ひがんだせいか、つい声が荒津ぽくなってしまった。
「おう。宮内か」
「退院したんですね。知りませんでしたよ」
「ひどい落馬だったんですけれど、大丈夫でしたか」
「おうよ。俺の身体は鋼鉄だからな。あんなじゃびくともしねえ」
「何を言っているんですか、人の前で落ちておいて。かわすのが大変だったんですからね」
「仕方ねえだろう。いきなり横に跳んじまったんだから」
「引っ掛けてやろうかと思いましたけれど、あの時、乗っていた馬は一億五千万ですからね。怪我させたら、やばいと思って避けました」
「人より、ウマの心配かよ。ひでえな」
「でも、ちゃんとかわしましたから。思いきり外にふくれましたけれど」
「ふざけるな。結果、見たぞ。しれっと勝ちやがって。あんなんで動揺するほど、肝っ玉は細くねえだろ」
俺が突っ込むと、宮内は笑った。
こいつは俺より六才年下の騎手で、立てつづけにでかいレースを勝って、その名を競馬界だけでなく、一般社会まで轟かせていた。
優男で、ふるまいも穏やかだが、レースになると、負けん気の強さを発揮して勝ちまくる。
ウマを操る技術は天才的で、気性が荒くて、すぐに走りたがるようなウマでも巧みになだめて体力の消耗を最小限に抑える。直線に入ると、ウマに負担をかけないアクションで追い出して、他馬をかわしていく。
コース取りも巧みで、内の経済コースをするすると回って、気づいた時には先頭に立っているということもある。
すごいね。最初からものが違ったよ。
騎乗技術が優れている上に、礼儀正しいから馬主や調教師の評判もいい。酒の席でも無茶振りをされねえって言うしな。だから、いいウマが次々と回ってきて、勝ち星が積み上がるという好循環だ。
俺みたいな不良騎手とはわけが違う。
が、なぜか、デビュー直後から、こいつは俺につるんできて、顔を見かけると声をかけてくる。美浦でも北海道でも海外でも。
イギリスのグットウッド競馬場で会った時には、びっくりしたね。ニューマーケットに仕事で行った帰りに寄ってみたんだと。
俺はじっと宮内を見た。
「何ですか。俺、そんないい男ですか」
「おい、ちょっと手首を回したみろよ」
「どういうことですか」
「いいから、やれよ」
宮内は言われるままに、手首をくるりと回転させる。ついでに上下に振る。
異様なやわらかさに、改めてビビる。
「ちっ。どんだけ手首がやわらかいんだよ。ムカつくぜ」
俺が手首を振ってみせると、宮内は笑った。
「硬いですね。そんなんで大丈夫なんですか」
「これでも工夫しているんだよ。くそっ、やっぱり似ているな」
「えっ、誰にですか」
「ちょっと前に会った天才だよ。お前と同じぐらいうまい乗り役だ」
ヨークを見た時、こいつに似ていると思ったが、やっぱりそうだった。顔といい、雰囲気といい、女にもてるところといい、そっくりだ。
「そんな奴がいるんですか。いいですね。紹介してくださいよ」
「教えねー。面倒くさい」
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