第28話 少女と王様 #3
「ごめんね。勝手に泣いちゃって」
チコは手で涙をぬぐった。その目は真っ赤だ。
「大丈夫だと思っていたんだけど、駄目だった。せっかく彼が声をかけてくれたのに、満足に話もできないなんて。心がばらばらになりそうで、全然、うまくいかなかった。駄目だね、あたし」
「……」
「トーク、大きくなっていたな。別れた時には、あたしと背が同じだったのに。肩幅も広くなった。王様なんだものね。当然だよね」
何だよ、その言い方。
チコ、お前、王様のこと知っているのか。どういう関係なんだよ。
俺が顔を向けると、チコはうつむいた。しばらく地面を蹴る。
「変な話をして、ごめんね。あのね、実はさっきの王様、昔はトークって名乗っていたんだけど、子供の頃には、うちの近くに住んでいたんだよ。普通の牧場の子供として」
なんだとう。
「詳しいことはわからないけれど、おじいちゃんは暗殺を避けるためだって言っていた。何でも、昔、王宮で大きな騒ぎがあって、両親が大変な目にあって、トークは家臣の人に助けられて、うちの近くに逃げてきたの。身分を隠して。本人にも本当のことは知らされていなかったみたい。王様の子供だって聞かされて、びっくりしたって言っていた」
チコは、訥々と王様と自分の関係について語った。
家が近かったことから、子供の頃からよく遊んだこと。川に入ったり、山にのぼったりして、日が暮れるまでいっしょに駆けずり回ったこと。大喧嘩して殴りあって、足に傷をつけられ、泣きながらトークが謝ってきたこと。
ウマに乗ることができるようになると、ネマトンプの原野をひたすら駆けずり回ったこと。夏のある日、悪天候で家に戻れなくなり、岩場でいっしょに夜を過ごしたこと。いくつものエピソードが、チコの口から語られた。
聞いているだけでわかる。チコの王様、いやトークに対する気持ちが。
ずっと顔をあわせているうちに、かけがえのない存在となった。
「十三の夏に、あたしから言ったんだ。ずっといっしょにいてって。トークはいいよ、って言ってくれた。一五歳になって、一人前と認められるようになったら、婚約を認めてもらおうって。うれしかった。でも、それはすぐに……」
夏のある日、王宮から使者が現れて、暴虐な王が病死して、正統な王を迎え入れる準備ができたことを告げた。すぐに王都に戻って、トークに即位してくれとの話だった。
事情を訊かされる間もなく、トークはネマトンプを去り、チコは一人で取り残された。
「訳がわからないよね。普通の牧場の子供が王様だって言われても。この人がいなければ、国をまとめることはできないんだって聞かされたって、受けいれることなんてできないよ。だってトークはトークなんだよ。ずっといっしょにいて、川を越えて野原を駆けずり回って、ウマで遠くに出て、手をつないで日が暮れるまで喋って。あたしの全部を知っていて……やさしく笑う男の子だったんだよ。それが王様だなんて、信じられない。ずっと側にいてくれるはずだったのに」
チコは涙を手でぬぐうと、空を見あげた。
「それから、ずっとあたしの心には穴が空いたまま。騎手を目指して、おじいちゃんの仕事を手伝って、何とかしようと思っていたけれど、全然、駄目だった。弱っちいね。情けないね。しっかりしなきゃいけないのに」
大事な人を奪い取られて、チコは深く傷ついた。
子供のたわいもないやりとりだから、たいしたことないって?
冗談じゃねえ。チコは本気だったんだ。心の底から、そのトークって男の子に寄り添って、いっしょにいたいと思っていたんだ。年齢なんて関係ねえよ。
誰だって、大事な物を失えば、痛手を受けるんだよ。
脳裏を、記憶がよぎる。やさしく笑う男の姿に、心が痛む。
思い出しちまう、あの時を。
そうさ、俺だって……。
ワラフやミーナがチコに気をつかっていたのは、事情を知っているからだろう。そして、心の傷が癒えていないことも。
もう少し時を費やせば、傷は癒えたかもしれない。
いや、違うな。傷とともに生きる道を見出すことができたと言うべきか。大人になれば、ごまかすことをおぼえる。正しくなくとも、それでどうにかしちまう。
だが、王様と会ったおかげで、かさぶたははがされ、傷は剥きだしになった。
しばらく心の血は止まらない。それは、俺がよくわかっている。
俺がチコを見たところで、風に乗って、喇叭の音色にも似た音が響いてきた。
堂々としていて、よく透る。自然に耳に入ってくる。
「いけない。そろそろ発走だ。行かないと」
チコは俺を引っぱって、厩舎に向かう。
発走って。もうフィオーノブ賞がはじまるのか。
いや、それはいいんだが。
チコ、お前、本当に騎乗できるのか。
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