第19話 大レースへ向けて #3

 一番最初に創設されたのはイギリスで、第一回は1780年。今から230年ぐらい前のことだな。


 出走できるのは、三歳のみ。距離は2400メートル。


 レースの重みは半端なくて、ダービーの競馬場はドレスアップした観客でいっぱいになる。金持ちたちの博覧会みたいなもので、見ていて驚くね。


 イギリスではじまったダービーは、近代競馬の拡大にあわせて各国で開催されるようになり、ケンタッキーダービー、フランスダービー、ドイツダービーといったレースがよく知られている。


 ちなみに、イギリスのダービーは、世界で最初で唯一ということで、The Darbyって言われる。ゴルフのThe Openと同じ。これ、豆知識な。


 で、日本では、1932年に東京優駿競走、いわゆる日本ダービーが創設された。距離は第一回から2400メートルで、毎年5月の末か6月の頭に開催される。


 格付けはG1で、他のレースと同じなんだが、実際の扱いはまるで違う。別格中の別格で、ジャパンカップや有馬記念より、はるかに重い位置づけをされている。

 いろいろと強いウマはいるが、やっぱり、ダービーを勝った馬は特別なのよ。


 馬主も牧場も、ダービー馬に対しては、特別な目で見る。調教師をはじめとするレースに直にかかわる者たちもな。


 ダービーに出るって決まっただけで、普段はおっかない厩務員が涙を流して喜んだのを見ている。やっぱり、すごいんだよ。


 ダービーデーの東京競馬場にいて独特の雰囲気がある。関係者もファンも、あの日は違う。浮ついているというか、興奮しているというか。何をやっても落ち着かないんだ。誰でも知っているベテラン騎手がそわそわして、立ったり座ったりしているんだからな。


 出走馬だけに許された特別な白いゼッケンをつけて、ウマがパドックに出てくると、厳かな気分になってしまう。テンションは高いのに、浮ついて喋る気になれない。俺だって、控室で黙って出走馬の映像を見ていたよ。


 そして、レース。歓声。四コーナーを回って、直線に入った時の興奮。


 ゴール直後の一瞬、すべての緊張感が切れた感覚と、その後に訪れる歓喜の声。


 こんなことは言いたくねえんだが、やっぱり重みがある。


 こんな俺でも何度でも乗ってみたい。勝ってみたいと思わせる特別なレース。それがダービーなんだよ。


 まさか、こっちの世界にもダービーがあるなんて驚きだぜ。


「さすがに、ウマがそろっているところは違うね」


 ミーヤが腰に手をあてて首を振る。


「普通ならば、一頭がフィオーノブ賞に出走できれば、万々歳なのに。一頭を王国ダービーに回して、別のウマで望むなんて」


「他にもいいウマはそろっている。悪いけれど、負けないよ」


 ヨークはチコを見る。本気で、こいつは勝つ気でいる。


 どんなレースでも、チャンスを見つけて勝とうとする。まったく、お前は、あいつによく似ているよ。忌ま忌ましい一流騎手にな。


 言われて、チコは微笑で応じる。おう、こっちも負けてねえか。


 いいね。俺も全力で行くぜ。やるからには勝たねえとな。


「それにしても、随分、早くに出走が決まりましたね。レースまでは、まだ一ヶ月も先なのに」


 ミーヤの問いに応じたのは、ワラフだった。


「ああ。今年は例年よりも北方地域からの出走が少なくてな。あっちはいろいろと物騒だからな」

「帝国との小競り合いですか」

「うむ。国境に兵をそろえていて、圧力をかけている。放っておくことはできないから、北方騎士団の一団を出して様子を見なければならん。近隣の領主にも声をかけているとのことで、動きが活発になっている」

「その話は、ぼくも聞きました」


 ヨークが口をはさむ。


「何でも、辺境伯爵のラシャ様にも声がかかって、準備を整えているとかで。あの家は、北方地域の一大馬主ですから。あそこのウマが出てこないとなれば、例年よりは手薄になるでしょうね」

「馬具もいつもより手に入りにくくなっているよ。気をつけないと」


 チコの表情も渋い。迫り来る危機に不安に感じているようだ。


 さすがに、この感覚はわからねえ。向こうの世界では、俺が戦争に巻きこまれるようなことはなかった。あちこちできな臭い展開はあって、いやなニュースを聞くことはあったが、武器を使ってのドンパチは遠い世界の出来事だった。


 戦争で競馬が中止なんて、ありえなかった。


 こういう話を聞かされると、異世界にいると実感させられるよ。剣と魔法の世界なんて、マンガの中だけだと思っていたんだけどな。


「こっちでも気をつけておく。昔の仲間にも話を聞いておこう」


 そういえば、ワラフの爺様は、昔、軍隊にいたんだったな。


 どこぞの隊長を務めていたらしいという話も聞いている。先月には知り合いが来て、厩舎の片隅で何やらむずかしい話をしていたっけ。


 きちんと勤めあげていれば、そこそこの地位にいただろうに、今は、こんな田舎で調教師を勤めている。どういうことかね。


「今は、フィオーノブ賞のことに集中しよう。せっかく出走できるのだから、万全の体制を整えたい」

「早めに移動しない? ウマに疲れを残したくないから」


 チコの提案に、ミーナもうなずいた。


「向こうの競馬場にもならしておきたいですね。この子、遠征ははじめてでしょう。クリドランは、普通に移動しても三日はかかりますから。疲れて能力が発揮できなかったら、困りますから」


 フィオーノブ賞は、ここと王都のほぼ中間にあるクリドランの町で行われる。これまでのように朝に競馬場に行って、そのまま走るというわけにはいかない。


 入念な準備が必要なわけで、俺もそのあたりはしっかりと覚悟を決めて……。


「ちょうどいい。クリドランの郊外には、いい温泉がある。しばらくそこに留まって調教しながら、準備を整えればバッチリだよ」


 チコの言葉に、俺の耳がピンと立つ。


 何だって。温泉? いい。それいい。


 行こう。すぐに、出よう。


 それでもって、混浴でいっしょに楽しもう。


 俺の鼻息が荒くなったのを見て、ミーナが腕を組んだ。その目は細い。


「やっぱり、この子、エロいよ」

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