第8話 馬主と調教師 #2

 男爵の厩舎を任されており、一〇人の厩務員と二人の助手を使って、ウマを調教している。餌の出し方や調教の計画、レースへの出走はすべて彼が決めており、彼がいなければ、ウマを走らせることは決してできない。


 腕はかなりいいとと思う。きちんとウマを見ていて、体調が悪そうな時には決して無理をさせない。調教の計画もしっかりとたてて行う。


 ただ、向こうの世界にいた一流の調教師と比べると、ちょっと劣るような気がする。

 なんていうか、あの人たちは化物だからね。


 一キロぐらい離れた調教コースで、ちょっと手を抜いただけで、すぐに気づく。戻ってくると、なんであそこで速度を落としたなんて、延々、説教される。他に何とも調教しているのにな。体調の変化にも敏感で、少しリズムが悪くなると、餌を変えたり、調教を変えたりして対応する。


 大レースが目の前にあって、ためらうことなく放牧に出したりするからね。


 いったい、どういう頭しているんだよと思う。


 そういった連中に比べると、ワラフの爺様はウマを見る目に劣るように思える。それでも、金勘定しかできない奴らよりは、ずっとマシだがな。


「侯爵様を押しのけて、うちのウマに乗ってもらうわけにはいきませんよ」


「だが、彼を見出したのは、私なんだよ。最初に声をかけて、乗ってもらった」


「テラドンナですね。おぼえています。いいウマでした」


 ヨークの言葉に、男爵は満足げにうなずく。


「そうだ。君のおかげで、私ははじめて大きなレースに出走させることができた。これからも乗ってもらおうと思ったところに、侯爵に横取りされて。君を見出したのは私だというのに。何とも腹立たしい」


 その後も、タクマニン男爵とヨークは話をしたが、ヨークが騎乗の依頼を受けることはなかった。


 まあ、地位とか名誉とかかかわると、いろいろと面倒だよな。


「で、こいつの調子はどうなのだ?」


 おっと、男爵様が俺を見たぜ。

 さて、どうしてやろうか。かみついてやりたいところだが、さすがに、それは問題か。


「いいですね。レース後なのに馬体は減っていませんし。調子は上々です」

「今日も坂道調教を三本やりました」

 ワラフの後を受けて、チコが言った。膝をつき、頭は下げている。


「次のレースまでには、さらによくなると思います」


「ふむ。ならば、一〇日後に使いたいと思うが、どうかな」


 えっ、ちょっと待ってくれよ。それは、ちょっと速すぎねえか。

 一生懸命、走ったんだぜ。ちょっとは休ませてくれよ。


「そこで勝てば、等級レースに出走する機会が与えられる。うまくいけば、フートリッシュ賞も夢ではない」


 男爵様は滔々と語る。


 えー。ちょっと、それは夢見すぎじゃない。


 そうそう、ようやく思い出した。俺たちの世界で言うところの皐月賞が、そのフートリッシュ賞ってやつだ。三歳馬の一冠目で、最も速いウマが勝つっていわれている。

 皐月賞に出走できるのは選りすぐりのエリートばかりで、厩舎の看板を背負って走る。

 こっちの世界だって、それは変わらないだろう。


 悪いが、俺じゃ、まだ無理だぜ。

 まだ一勝しかしていないのに。

 せめてもう少し大きいレースで、まともな結果を出してから、考えようぜ。



 俺が横目で、ワラフ爺を見ると、困ったような顔をしている。ヨークもチコも同じだよ。


「それは、次のレースに勝ってから考えればよいのでは」


 意外にも口を開いたのは、ヨークだった。


「そこで通用しなければ、フートリッシュ賞はむずかしいかと。参加はできても、後方を走っているだけということもありえます。もし、ムハム男爵のウマよりも後になったら、あまり楽しいことにはならないかと」


 ムハムという名を聞いた途端に、タクマニン男爵の顔が歪んだ。


 ははん、どうやら、そのムハムは馬主で、男爵様とは仲が悪いらしい。表情を見るかぎり、犬猿の仲ってやつだな。


 レースで、嫌いな奴のウマに先着されたら、さすがに腹立たしいよな。

 俺も、向こうの世界で、あいつのウマだけには負けるなと言われたことあるものな。


「そうだな。それは面倒だな」

「そのあたりを一考していただければありがたいかと」

「さすがは、一流騎手。いい意見だ」

「出過ぎた真似をして申しわけありません」


 ヨークは頭を下げる。


「ですが、せっかくですので、もう一つ」

「何だ?」

「騎手ですか、チコにやらせてみたらいかがでしょうか」

「何だと」

「おもしろいと思います」


 チコが目を大きく見開いて、ヨークを見る。


 俺もちょっと驚いていた。


 チコが騎手を目指している。俺がそれに気づいたのは、この世界に転生してすぐのことだった。ウマの世話をしながら騎乗技術を磨いており、俺の目から見ても、レベルはかなり高いところまで来ていた。とにかくバランス感覚がよかった。


 ウマに乗っていない時でも 大木に縄をかけて登ったり、自作の長い平均台を全力で走ったりしていた。ただ、その姿を絶対に他人には見せなかったので、知っていたのはワラフの爺様ぐらいだと思っていたが。


 そのあたりをちゃんと見抜いているとは。イケメンのくせに、細かいところにも気づくなんて。サイテーだな。


「この娘に?」


 男爵がチコを見おろす。


 ワラフが口をはさもうとしたが、それより早く男爵は話をはじめていた。


「馬鹿なことを。こんな娘に、ウマが操れるものか。落馬しないように、しがみついているのがせいぜいだろ。無理だ、無理だ」


 何だと、この野郎。


 お前が、チコの何を知っているんだよ。


 俺は怒りに身をまかせて、男爵に身体をぶつけてやろうと思ったが、それを押さえたのはチコだった。立ちあがって、首筋に手を回す。


 腕が震えているのを見てとって、俺は踏みとどまった。


 くそっ。腹がたつ。


「さあ、今後のことについて話をしよう。ついて参れ」


 タクマニン男爵は、ワラフを伴って、厩舎に向かった。


 取り残された俺たちは、二人の背中を黙って見送った。


 ヨークが詫びの言葉を述べ、チコがそれに応えるまでには、かなりの時間がかかった。




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