第5話 異世界の競馬 #2
この世界の競馬は、俺たちものとはかなり違う。ウマと人がまとめて暮らすトレセンはないし、ウッドチップやプールのような調教施設も存在しない。
厩舎は原野に建てられた掘っ立て小屋のようで、周囲に広がるのは草原だけだ。近くの家までは、相当に遠い。っていうか、俺は見たことがねえ。
どっちかっていうと、ニューマーケットやシャンティといった海外の調教施設に雰囲気は似ているが、それでも、ここまでの広さはなかった。草原の先まで自由に走ることができるわけで、その気になればどんな調教でもできる。競走馬を鍛えるには最高の環境だ。
関係者は野っ原に建てられた家に住んで、勝手気儘に仕事をしている。
それでも、朝、こうして調教をすることには変わりはない。
厩舎近くの坂道を登って、身体を鍛える。後脚を鍛えたければ、きつめの坂に入るし、リズムを整えたければ、ゆるやかな斜面を軽く回る。
こらえることをおぼえさせたければ、前にウマを置いて、ゆっくり走らせる。
技術的には劣るが、ウマへ愛情を注ぎ、少しでも成績をよくするために懸命に鍛える。ホースマンの本質は、ここでも同じだ。
……にしても、レースから三日で、これだけきつい調教はないんじゃないか。
勝ったんだから、もう少し楽させてくれてもいいんじゃね。
チラリと後ろを見ると、チコは笑って、俺のたてがみをなでた。
「あ、また楽しようとしていたでしょ。まったく、あなたはすぐに手を抜くんだから。そういうのよくないよ」
ぶー。
一生懸命が美徳だなんて、誰が言ったね。
やるときはやって、楽する時は楽する。それでいいじゃん。
まあ、俺は楽する時間が長いんだけどね。
「まだ、この先は、長いんだからね」
チコは俺の背中から降りると、傍らに立って首筋をなでた。その視線は、緑の稜線に向いている。
「いい。あなたは、勝った。でも一つだけ。九回もレースをやって、ようやく一つ。さすがに遅すぎ。あなた、競走馬としては結構すごいんだからね。もっと早くに勝っていなければ駄目なの」
ええ、わかっていますよ。
もっと早く勝ち上がっていなければならないこともね。
だが、一つ言わせてもらえれば、俺が負けたのは、あのへぼ騎手のせいですからね。展開を読む能力もなければ、コース取りを考える頭もない。ただ、外を回せば届くと思っている馬鹿のおかげで、どれだけ苦労させられたか。
「次は、同じく一勝したウマ同士が戦うレース。多分、二週間後になる。それに勝てば、
へいへい。俺は、まだ走らなければならないのね。
ただ、話を聞いているかぎり、レース大系は俺たちの世界と似ている。
チコや他の連中との会話から、どうやら俺が三歳馬であることは間違いない。
転生した時には、五戦していて未勝利で、それから三走で、何とか勝ちあがった。
俺たちの世界なら、一勝したので、今度は一勝クラスのレースに出走できる。
そこで勝てば、次は重賞だ。
中央競馬の三歳馬ならば、きさらぎ賞、ディープインパクト記念弥生賞、フジテレビ賞スプリングスSがよく知られている。
で、勝ち負けできれば、三歳最初の
その後に控えているのが、三歳馬の頂点を決めるレース、東京優駿、いわゆる日本ダービーだ。
毎年約8000頭の競走馬が生まれるが、ダービーに出走できるのは一八頭。そして勝つのは一頭だけだ。
ダービーは三歳馬しか走ることができないので、一生に一度の舞台となる。
で、こっちのレース体系はというと……
似たようなもので、一勝すると、勝ち上がったウマが出走できるレースへと進み、そこでいい成績をあげると、等級のついたレースに出る。なんだったかな、ミシャンとか、ジャンクとか言ったような気がするが、細かいことはおぼえていない。
で、そこで勝つとトップクラスのレースとなり、その後に、この国で最大のレースが待っている。
これも、何度か名前を聞いたが、おぼえていない。さすがに、まだ慣れていなかったからなあ。
レース体系が似ているのは、ウマに対する考えが同じだからかね。三歳馬は若駒といっていいけれど、そこで頂点を決めるのがやっぱり面白いのかもしれない。
一勝した俺は、当然、最高級レースを目指すことになるわけだが……。
いや、正直、面倒くさい。
スケジュールもきついし、身体にも負担がかかるし。
とりあえず一勝したんだから、いきなりクビになることはねえだろ。しばらくはのんびりやっていこうぜ。
俺がチコを見ると、彼女もこちらを見ていた。じっと見つめる瞳がなかなかに険しい。
「また楽すること考えていたでしょ」
うっ。どうして、この子は俺が考えていることがわかるのかね。
「駄目だって。まだまだ、あなたは身体に余裕があるんだから。鍛えれば、もっと強くなれる。だから、これからもビシビシ行くからね」
チコは俺を指さす。いや、そんなポーズをつけんでも。
はああ、見た目はかわいくて、めっちゃ俺好みなんだけど、調教に関してはいっさい手を抜かないんだよな。ウマを可愛がることと甘やかすことの区別をしっかりつけていて、やさしくしてくれるんだけど、締めあげるところは徹底的に締めあげてくる。いや、ウマである俺には、ちょっときついよ。
世話になっているから、仕方ないが、ちっとは楽させてくれよ。
「さあ、行くよ。坂、あと二本は登るよ」
えー。坂路三本追いですか。
今時、そんなハードトレーニングする調教師、どこにもいないよ。
俺は嫌みたらしく首を振って鳴いてやったが、気にすることなくチコは俺の背中に乗って軽く手綱を振った。
へいへい、じゃあ、行きますか。
俺は坂道に足を向けたが、そこで気配を感じて、一度、止まった。
目だけ動かして後ろを見ると、斜面を登って、栗毛の馬が姿を見せたところだった。均整の取れた体つきで、尻の筋肉がいい具合に発達している。足首の関節もやわらかそうで、いかにも走りそうだ。
くそっ。来やがったか。
顔をあわせる前に、とっとと行きたかったが。
視線をそらそうにも、視界が広くてできない。だから、そのウマが近づいてくるのを俺は黙ってみているしかなかった。
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