第14話「ぼっち・ざ・ろっく」はフレンドハラスメント?

 最近人気を博したアニメで「ぼっち・ざ・ろっく」というのがあります。コミュニケーションが苦手でどうしても友達ができない。話しかけられない。なのでバンドをやったら友達ができるかも、ということで毎日6時間練習してたらメチャメチャ上手くなって、バンドに加わって…という話です。


 さて、この話でコミュニケーション障害の少女がギターというツールを使って友達を得るわけですが、友達がいない=ひとりぼっちというのはギャグにしていい対象らしいですね。

 そして、ロックとギターが主題なのに、音楽表現論でも湧き上がる衝動や社会に対する反抗でもなく、「承認」がテーマになっているのが時代を反映しているなあと思います。


 ヒロインのぼっちちゃんが「仲間を得る」「動画でバズる」ということがメインテーマで、ぼっちちゃんが悩み一人の状態で行う奇異な言動をがギャグとして機能していました。


 これって、例えば男女関係に置き換えて、モテない少女が男欲しいという理由でギターをやっては駄目なんでしょうか?「けいおん」の顧問の先生はそんな感じだったですね。あの時代は独身キャラがギャグでした。あるいは結婚相手を探すために何かをやり出したら、プロになって結婚できた、とか。

 子供がいない、子供が出来ない苦悩をエネルギーに変えて、というのはさすがに今の時代では描けないでしょうか?まあ、炎上間違い無しでしょう。


 ぼっちちゃんて、ほとんど自閉症に近いような病的な障害に見えますが、それを笑っていいのに、子供が出来ない女性を笑ってはいけない理由ってなんでしょうか?同じマインドの気がするのですが。


「ぼっちざろっく」を否定している訳ではないです。むしろ、面白くて音楽も良くていい作品だと思います。そして、神経質になって「コミュニケーション障害持ち」というある意味で「病気」のヒロインに対する嘲笑を言葉狩りしないのもいいでしょう。

 ただ、その時に気がつきたいのは「仲間、友達が大事だ」という「価値観の共通基盤はある」ということを当然のように皆が認めているということが言いたいわけです。友達がいない人間に対するハラスメントだ、と言い出したらどうなるでしょうね?フレンドハラスメント?フレハラ?


 一方で、多様性やポリコレをうたうあまり、恋愛・結婚・出産を否定しすぎていませんか?男女の恋愛、結婚、出産が素晴らしいという共通基盤があってはなぜ駄目なのでしょうか?


 最近のアニメ・マンガ・小説は異世界と百合やBL、日常系に逃げちゃってます。恋愛ものがあっても、いつの間にか身近な美少女が都合よく好きになってくれちゃってるような話が多いです。

 物語の世界でも、何かが変わって来てますね。「リコリコ」も百合とBL推しでしたし。



 








 

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