第12話 フェミニズム・ジェンダー論の議論の問題
定義ですが、フェミニストは女性に対する差別を失くすべきと考える人、そしてその活動をする人、ジェンダー論者は男女の肉体的区別による社会的な取り扱いの区別を一切やめる人だという人だと思います。
権利に着目したのがフェミニズム、肉体の社会的性差に着目したのがジェンダー論ということです。
つまり、フェミニズムでは男性女性を完全に区別した上で、女性に対する差別を失くすという方向もありえます。もちろんジェンダー論と融合して男女の肉体的性差での区別をなくすのが女性の権利向上だという論もあるでしょう。
で、この問題でややこしいのが、いつも議論が結論ありきのことです。まず自分の採りたい説が頭にインプットされている人が非常に多い。なので、それぞれがやることは論破、防衛のための証拠探しになります。
ジェンダー論で例えると、男女に差はないという議論をするために、特殊な生物を持ちだして「ほら男女に差なんてないよ」と言います。「いや、それは特殊例だから」というのが通じません。極端な例ですけど、些末な個別例を持ち出して「これが証拠」を延々と繰り返します。
精神は肉体に宿る。つまり、肉体の差が精神の違いにつながるというのが、許せないから始まっているのでしょう。最近はニューロジェンダー論といって脳機能に男女差がないとことを説明します。
ただ、生物全般を広くみれば、肉体、男女オスメスが行動=心理に差をもたらすのは当然というのを受け入れないので、議論が先に進まない気がします。ライオンや猿の行動、アンコウ、カマキリ、各種求愛行動などはどう考えるんでしょうか?
というかなんで躍起になって、生物学的な差異を否定するのか分かりません。
権利の問題じゃないよ。生物としての制限の問題を前提として議論しているんだよ、というのが通じません。男女の肉体的機能的差異を明確にして、そこで歩み寄ろうがない気がします。「男女に脳の差なんてあるはずがない」「男女の脳は同じであべきだ」が結論にあるので議論も反証も許してくれません。
この問題になると構造主義的な制約が急に許せなくなるみたいです。
遺伝的な差は染色体が違う以上あると考えるのが自然です。肉体を制御するための酵素が男女で違うのですから当たり前です。また、百歩譲って脳の構造そのものに差がないとしても、肉体をトリガーにして反応が変わっているということは、男女の肉体による差異により脳の機能の仕方に差が生まれているということです。
自分の論を自分の証拠、自分の理屈で説明しているつもりになる、再帰的な説明といいますが、自分で自分を洗脳しているので自分を検証して、反省するという行為がスパッと抜けています。これはかなり頭が良く、他の事ではものすごい優秀な人、尊敬できる人でも、この点になると途端に説明でやってはいけないことの初歩の初歩のワナに陥ってしまいます。
そして、結論ありきなので別の意見に寄り添うことがありません。他の人の意見のアラを探す方向に頭がいってしまいます。
これって、自分の生き方に絡むことなので自己否定が出来ない心理なんでしょうか。ルサンチマンな気がします。どちらの方向にせよフェミニズム、ジェンダー論については、男女ともに「自分が間違っていた」どころか「あなたの反論は参考になった」を言える人は本当に少ないです。
一番、フェミニズム、ジェンダー論の議論と発展を阻害しているのが、冷静に、謙虚に、証拠の参照、科学的態度、自己否定を出来る度量をもって議論をするという態度だと思います。
フェミニズム、ジェンダー論を展開する人はぜひ近代哲学の流れ、新書の入門書程度でもいいので常に参照してほしいなあ。
女性の権利と環境になると、科学に途端に思想と政治が入るのがどうも気に入りません。それは欧米…特にイギリスとドイツ、時々アメリカが極端な気がします。ノーベル賞も政治の世界じゃんと思います。
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