第24話 性認識と性指向は区別すべきでは?
肉体の性別に関係なく男女を区別すべきという議論があります。生物としてここまで不自然な主張はちょっと他に類例を見ないと素直に感じるのですが、どんなもんでしょう。
いわゆるジェンダー論です。1960年代のサルトル、ボーボワールの実存主義的な女性解放、フリーセックスの理由としての「女に生まれるのではない、女になるのだ」という文脈はわからなくはないですけど、本当に正しいの?
生まれつき性自認が別の性になっている人がいます。身体は男心は女、身体は女心は男。これは心理的な問題としては非常に深刻なのでケアは必要になってくるでしょう。統計によって違いますが1%~4%程度いるみたいです。
ただ性嗜好の問題ですね。同性しか愛せない、同性も愛せる人。5~20%くらいいると言われていますが、これは性的な嗜好でしかありません。SMとかロリコンと同じじゃないでしょうか?
人間は言葉の生き物ですから、不思議な脳の働きをしてしまうようです。本当の意味での性的欲望が満たされることはなく、人間の認知には言葉という薄皮が常に張り付いています。肉体ではなく言葉という「意味」でしか性的快感を得られないので、動物のような本能に根差した性的な欲望の充足にはならないということです。ちょっと難しいですが、ジャック=ラカンを読んでもらえるとわかります。
だから、下着や2次元といった間接的な女性性に性欲を感じるし、女性が履いているかどうかではなくモノとしてのハイヒールにしか性欲を感じないという人もいるし、電車を見ると勃起してしまうと言う人もいます。
どの性が好きかなんて言うものは完全に趣味・嗜好であって、「俺はイスと性交する権利を要求する」「私の恋人はこの電気スタンドよ」とか言われているのと一緒な気がします。極論ですがどこに生物としてのオスメスの機能を越えて、違う方向に性的な興味が向くという点では同じです。
物しか愛せない人は脳の病気を疑われるでしょう。なのに生物として不自然な性指向の問題だけ権利として問題を取り上げるのはなぜでしょうね?特別扱いすることがかえって性差別になっているのでは?
言い換えると性的な指向、誰が誰を愛そうが異常はなく、好きにしてくださいということです。つまり権利云々については性認識の問題に集中した方がいいということです。
結婚制度については、子供を作る意思が無ければ私はする意味がないと思いますので、結婚ではなくカップル登記制度を作ればいいと思います。
西洋では宗教の関係でもともと同性同士のカップルは迫害、処罰の対象だったようで歴史的に権利獲得の運動が必要だったのかもしれませんけど、いきすぎて過度になってませんか?
人間が何に性欲を感じるのかは、千差万別です。そこの議論に時間をついやして肉体の差をなかったものにするのはどうしたものでしょう?
たとえば社会的な合理性についてです。男性の肉体で自己認識が女性の人が女風呂に入れる社会になったら。実際アメリカで起こったそうですけど。
本人の権利は守られていますが、性認識が女性の権利はどうなるんでしょうね?男性の肉体を見たくない、見られたくないという権利もそうですけど、性認識が違うフリをして女風呂に入る人をどうやって区別するんでしょう?いちいち診断書や許可証の提示を求めるんでしょうか?
勃起しているかどうかで確認しますか?うーん。肉体を無視しろって…
肉体の性別が関係ないなら、性は極論すれば自己申告でOKなんでしょうか?盗み見も盗撮もし放題ですね?ジェンダー論の人はそもそも男女の区別が必要ないから風呂場もトイレも一緒にすればいいという結論になるの?それはそれで一貫性がありますね。化粧も下着も全部一緒にしちゃいましょう。
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