3 震える

 せっかくだから、少し昔の話をしようか


 そうして春火は語り始めた。


        *

 

 彼女はいつも体育館倉庫の裏の階段に座って書き物をしていた。

 楽しそうに書き殴っている彼女の姿を、春火はずっと木の上から眺めていた。

 春火は俗にいう、〈怪異〉と位置付けられるものだった。〈怪異〉とは、人知を超えた異様な存在、または彼らが起こす不思議な出来事のことである。

春火は何もない空間から黒で縁取られた虹色の蝶を出現させ自由自在に操る、虫の化身で人間に害をなす存在だった。

〈怪異〉は普通の人間には見えない。だから春火の姿も見えないはずだった。


「ねえ、下りないの?」


 気づけば彼女は木の下で春火を見上げていた。


「見えるのか?」

「見えるも何も、そこにいるじゃない」


 ごくたまに、普通の人間より感覚が鋭い人間は春火の姿を見ることができる。彼女もその類なのだろう。

 彼女はしばらく春火を見つめた後、戻って階段に座り直し、すさまじいスピードでノートにシャーペンを走らせた。

 それが、春火と彼女――智里ちさとの出会いだった。



 智里はその次も、その次の日も、同じ時間の同じ場所で書き物をしていた。

 春火もその傍の木の上に座り、智里を眺める日々が続いた。

 そんなある日のこと。智里は春火がいる木の下まで来て、ノートを掲げた。


「見て、うまく描けたでしょう?」


 ノートを見ると、そこには春火の似顔絵が描かれていた。

 春火が黙っていると、智里はノートを掲げたまま俯く。


「気に入らない?」

「いや……」


 春火は一息ついてから言う。


「よく描けているよ」


 春火の言葉に智里の表情が明るくなる。その瞬間、春火の胸が疼いた。


 

 それからというものの、智里は毎日、春火に絵を見せてきた。

 植物の絵や空の絵を見せてくることもあったが、多かったのは春火の似顔絵だった。

 懲りずに絵を見せてくる智里に春火は忠告した。


「〈怪異〉にのめりこむんじゃない。怪我するよ」


 ましてや、春火は害虫だ。春火や春火の蝶に触れれば傷つく。それ故に春火は木から下りず、智里に近づかなかった。

 智里はきょとんとした表情で見上げている。

 春火がもう少し詳しい説明をしようと口を開けた時、智里の表情が晴れた。

 何が嬉しいのか、彼女は顔を赤らめている。


(分かっていないのか?) 


 だが、春火はこれ以上何も言う気になれなかった。

 ただ、嬉しそうな彼女を見て、初めて愛おしいと思った。



 こうして、春火と智里の交流が続き、今日に至る。

 今日、春火は何となく裏門辺りを歩いていた。


「返して! 返して!」


 聞き間違えるはずがない智里の声に春火は即座に反応した。

 智里の声がする方に行くと、智里を七人の人間の女が囲んでいた。

 七人の中の一人が智里のノートを開いている。


「これ誰?」

「まさか理想の男子? キモッ!」


 智里はノートを返してもらおうと飛びつくが、ノートは背の高い女が頭上に掲げたため、智里は取ることができなかった。


「キモい奴。こんなものはこうしてやる」


 女はノートを放り投げる。ノートは裏門を越え、外の道路に落ちた。

 智里は走ってノートを取りに行く。

 その姿に七人は大笑いした。

 だが、状況は一変する。

 ノートを拾うために屈み、立ち上がったその時、智里がトラックにはねられた。


「――――――――――――――――――――!」


 春火は手を伸ばすが届かず、智里は地面に叩きつけられる。

 それを見ていた七人は青ざめた。


「やばくない?」

「とりあえず逃げよう」


 そう言って七人はその場を走り去った。


 ざわざわ


 春火は伸ばした手を降ろし、大量の蝶を出現させる。


「行け」


 春火がそう命じると、大量の蝶はあの七人を追いかけた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る