夜明け

 微かだった振動は、見る間に揺れ幅を増していく。

 なかなか目覚めない瑞穂の手首を掴もうとした旭の手が、突然何者かに縛られたように自由を奪われた。

「——……っ!」

 身じろぎしようにも、もはや全身の筋肉が硬直したように動かない。

 激しくなる揺れに、漸くうっすらと瞼を開けた瑞穂の名を必死に呼ぼうとするが、その声すらもガチリと封じられた。


 耳の奥に、声が響く。

『瑞穂は、我が妻じゃ——触れることは許さぬ』


「……」


 思考すら縛られたのか。一言の返事も探し出せない。


ほう——瑞穂の神としての生を散々穢したのみでは飽き足らず、神の寿命までも断ち切らせ、下界の闇に引き摺り下ろして手に入れようとは。

 穢れた魔物の分際で、この儂の新妻を奪うなど、断じて許すわけにはいかぬ。

 どうじゃ。瑞穂の目の前で、無様ぶざまに事切れてみるか』

「……、う、ぐっ……」

「——あ、旭殿……!!」

 強い揺れと旭の異変に、瑞穂は目を見開くとがばりと跳ね起きた。

 同時に、強烈な揺れが襲い掛かった。

 室内の家具や本棚が、身動きできない旭を狙うかのように凄まじい勢いで倒れかかった。


 ——殺される。星の守に。

 なす術もなくぎゅっと目を瞑った瞬間、大きなものが力強く自分を包んだ。

 室内のあらゆるものが降りかかってくる気配と共に、何かが上から折り重なるように凄まじい圧力をかけるが、その衝撃は自分に覆い被さるものが全て受け止めてくれている。

 布団に蹲った状態で身動きできぬまま、旭は瞼を微かに開けた。

 銀の髪が、目の前に滝のように流れ落ちている。

 気づけば、耳元で絶え間なく何かを唱える低い声が続いている。

 瑞穂の呟きだ。

 低く響くようなその声に、次第に力が籠る。

 それに従い、地面の揺れは何か痙攣でも起こすような奇妙な震えに変わり始めた。


『——み、瑞穂、これは……

 この呪いは、神に対し用いることは許されぬ禁忌の術であろう!! その呪言を、今すぐ止めよ!!』

「私はもはや神ではございませぬゆえ。神の世の定めに従う道理はございませぬ」

 耳元の低い声が、不敵に微笑む。

「今後、旭と私には一切関わらぬと、お約束くださいませ。星の守様。

 さもなくば、私はこの呪言を解きませぬ。貴方の気が触れるまで」


『……っ、其の方……』

「如何なさいますか」


 キーンと、空間が苦しげに歪んで不快な金属音を立てた。

 星の守が、とうとう耐えきれなくなったかのように荒い息の下で返答した。 

『——……っ……良かろう。

 せいぜい下界の闇で惨めに野垂れ死ぬが良い』

しかとお約束致しましたぞ」


 瑞穂の呪言がふつりと止む。

 同時に、地面と空間の揺れがふっと止まった。

 鳴り続いていた不気味な地響きも、次第に遠ざかっていく。


 身体の上にのしかかっていた家具や棚が、突然呪いが解けたかのようにガラガラと崩壊し、畳の上に大量の木片が散乱した。

 漸く静まった薄闇の中、旭は自分を強く包んでいた温かなものからそっと解放された。


「…………」

 恐る恐る振り返り、それを確認する。


 瑞穂は、青白い額に一筋鮮やかに赤い血を流し、旭を見つめていた。


「……瑞穂……

 瑞穂!!」


 旭は、無我夢中でその首筋にしがみつく。

「額、血が……! それに、いろいろ倒れてきたし、落ちてきたし、身体中絶対怪我してんだろ!! 今すぐ病院……」

「大丈夫だ」


 瑞穂は、再び旭をぐいと引き寄せ、その存在を確かめるように深々と抱き締めた。


「——旭。

 ようやく、そなたを取り戻した」


 息もできないほどの抱擁に、堰き止めていたものがとうとう旭の胸の奧から大波のように押し寄せた。

 障子の外は、深夜の闇から夜明けに向かい微かな光を帯び始めていた。









 早朝にもかかわらず、宮司は旭のSOSに快く応じてくれた。額に傷を負い、寝衣の内側も全身に怪我や打撲を無数に受けている瑞穂は、半ば強制的に母屋へ連行され、診療所の医師が診察に来る手筈が早急に整えられた。

「旭、済まぬ。部屋の片付けを頼む」

「うん、全部やっとくから何も心配しなくていいよ。瑞穂はとにかく今は絶対安静!!」

 旭の叱るような口調に、瑞穂はようやく渋々床についた。



「というか……昨夜、一体どのようなことが?」

 離れの部屋の惨状を目の当たりにした宮司は、青ざめながら旭にそう問いかけた。

「え、あの、昨夜はすごい地震で……あの揺れで、母屋の方は大丈夫だったんですか?」

「すごい地震? ああ、確かに昨夜の地震は結構大きくて驚きましたが……少なくとも、家具や本棚が全て倒れるようなレベルではなかったはずなのですが……」


「……」

 どうやら、あれほど強烈に揺れたのは、離れのある敷地のごく一部だけだったようだ。自分の欲望の為に躊躇なく神通力を振るう星の守の執着に、すっと背筋が寒くなる。

 しかし、それも昨夜、瑞穂が固く封じた。

 宮司には、これを何と説明すべきか。旭はしどろもどろにかいつまんだ話をする。

「——……あ、えっと、あれです。

 昨夜は、神の世で瑞穂に執着していた因縁の相手と一悶着あった感じなんですが、その件は瑞穂がしっかり話をつけたので……今後はこういうことはもうないと思います」


 一瞬ぽかんとしたように旭の話を聞いた宮司は、次の瞬間、はっとしたように表情を変えた。

「——え!? 

 ということは、瑞穂様はとうとう、これまでの記憶を取り戻されたと……そういうことですか!?」

「はい。全部、思い出したみたいです」

 旭はそこでようやく、満面の笑みで宮司を見つめた。


「そうですか……

 良かった。本当に……」

 笑顔を作ろうとした宮司の口元と眉がぐっと歪み、その目がじわりと大きく滲んだ。

 目頭を指で慌てて押さえ、鼻を小さく啜って宮司は声を震わせた。

「……ああ、すみません。みっともないところをお見せして。

 なんだか、傍で接するうちに、瑞穂様がまるで息子や何かのように思えてきてしまいましてね……一日も早くお元気になられるよう、毎朝毎晩、神に祈っておりました。

 旭さんとの再会が叶い、記憶が戻られて……本当に、瑞穂様は全てを取り戻されたんですね……」

「寛治さん。これまで半年近くもの間、本当にありがとうございました」

 旭は、宮司に向き直ると、深々と頭を下げた。

「この世界に来て、全てを失ってしまった瑞穂が、こうしてまた全てを取り戻すことができたのは、ここで瑞穂を支えてくださった皆さんのおかげです。

 あ、ってか、ここにきてお借りしていた部屋をこんなことにしてしまって、本当に済みません!! 瑞穂と俺で、必ず弁償しますから!!」

 改めて青ざめながらがばりと頭を下げる旭に、宮司はははっと大きく笑った。

「気にしないでください、どっちにしても母屋には置けない荷物をこちらへ置いておいたようなものですので」

「いえ、これは俺たちになんとかさせてください、お願いします! 

 あ、と言っても俺まだ学生で、瑞穂もこれから職探しとかしなきゃですけど……」


「……職探し……なるほど、そうですか。

 ならば……」

 思案を巡らせた様子の宮司は、ポンと手を打った。


「今度の四月より、瑞穂様にここで禰宜ねぎとしてお勤めいただくというのは、いかがでしょうか?」


「——は?」

「実は、我が神社に勤めていた禰宜の一人が、この三月でここを離れることになりましてな。新たな募集をせねばと思っていたところなのです。

 もしこの話に応じていただけるのであれば、瑞穂様にはこのこのまま住み込みで離れをお使いいただいて結構です。

 この部屋の本棚には、神職を勤めるための手引き書を一通り格納してあったのですが、瑞穂様はこの部屋の書物はあらかた読んでしまわれたそうですから、禰宜の職務についてもすっかりご理解されていらっしゃるでしょう。新たな言葉を覚えるのも本を読むのも実に速く、理解もこの上なくスムーズで、瑞穂様には驚かされることばかりです。

 もし瑞穂様が頷いてくださるならば、いずれはここの宮司の職を引き継いでいただけたなら……私たちにとって、これほど嬉しいことはございません」


「…………

 そ、そんなありがたい話……本当にですか……?」

 驚きで目を見開く旭に、宮司は表情を引き締めて答えた。

「いいえ、むしろ畏れ多いことでございます。

 瑞穂様は我々の祀る神の座からここへお越しになった尊いお方。そのお方がこの神社をお守りくださるとは、有り難すぎて空恐ろしい程でございます」


「——……夢みたいだ。

 そう言ってもらえて、なんか俺、今死んでもいいくらい嬉しいです……

 瑞穂のこれからの居場所はどうしたらいいんだろうって、ずっとそればかり考えていたので……

 この話聞いたら、瑞穂も絶対喜びます。

 どれだけ感謝をお伝えしても、足りません。ありがとうございます、本当に」

 冷静にまとめ切れない程の喜びに、旭の声が抑えようもなく震えた。


「そうであれば、私たちも安泰です。

 ——まずは、瑞穂様のご回復、誠におめでとうございます」

 宮司は、改めて明るい笑みを浮かべると、旭に向けて深々と頭を下げた。









 瑞穂の体の様子は、深刻な損傷や骨折などは幸いなく、しばらく治療を続ければまもなく回復するだろうとのことだった。


 医師の診察が済んだ母屋の一室の襖を、旭は静かに開けた。


「——瑞穂」


 二月の午後の空気はまだキンと冷えているが、柔らかな黄味を帯びた日差しが障子から差し込んでいる。

 布団に半身を起こし、半ば開いた障子から見える外の景色に顔を向けていた瑞穂が、ゆっくりとこちらを向いた。


「旭」


 そう答え、瑞穂は穏やかに微笑んだ。


 ただそれだけのことが、これほどにも激しく胸を揺さぶる。


「旭、外を見てみよ。

 梅が咲いておる」


「——そうだね」


 続ける言葉を見つける前に、旭の目から涙が止めどなくこぼれた。



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