再会

 小さな駅を降り、改札を出ると、待合の椅子からすらりと長身の男性が立ち上がった。予め衣服などの情報を伝えておいたため、旭だとすぐに気付いたようだ。

「雨宮 旭様ですね」

「あ、はい、そうです」

「遠いところをお越しくださり、誠にありがとうございます。天の原神社の宮司、雨宮寛治でございます」

 六十代半ばくらいだろうか。髪と同色のグレーのセーター、黒のジャケット、ブラウンのスラックスに身を包んだ品の良い紳士だ。彼はにこやかに挨拶すると、旭へ向けて丁寧に頭を下げた。

「あ、雨宮旭です。初めまして。よ、よろしくお願いします」

 緊張でぎこちなく会釈をし、旭も挨拶を返す。

「こちらは寒いでしょう。お疲れのところ申し訳ないのですが、この後山道に入って参ります。車の乗り心地は今ひとつですが、どうぞお許しください」

「……いえ、全然大丈夫です。お迎えに来てくださって、ありがとうございます」

 宮司の笑みは穏やかに温かく、旭は再び頭を下げながら張り詰めた息を漸く解放した。


 車で山道を奥深く進んだ先に、天の原神社はあった。

 大規模ではないが、その佇まいはずっしりと重厚だ。穏やかな朱に塗られた鳥居。濃茶色の分厚い檜皮葺の屋根に、黒く落ち着いた構えの社殿。周囲を包む森の清澄な空気にも、神域の厳かな気配が漲っている。

 神社の奥の小道を進み、旭は旧家らしい立派な邸宅へ案内された。

 宮司が玄関の引き戸を開けると、奥から宮司と同じ年頃のふっくらと小柄な女性が出てきて、柔らかな笑みで深々と頭を下げた。

「ようこそおいでくださいました。雨宮寛治の妻の初江でございます」

「初めまして、雨宮旭です。よろしくお願いします」

「本来ならば、まずはお茶でもお出ししてくつろいでいただくべきところですが……それよりも、先に離れへご案内いたしましょうか」

 大きな玄関を上がった旭に、宮司がさりげなくそう申し出た。

 込み入った事情を抱えているらしい瑞穂と旭の心の内を推し量っての心遣いだろう。

「——ありがとうございます。お願いします!」

 旭は無我夢中でがばりと頭を下げた。


「こちらが離れになります」

 渡り廊下を歩く宮司の後に続きながら、旭の心拍は一歩ごとに激しくなっていく。掌がびっしょり汗ばみ、足が縺れてもどかしい。

 ひとつの襖の前へ来ると、宮司は旭を振り返って静かに告げた。

「瑞穂様は、このお部屋にいらっしゃいます。

 私は、母屋へ戻っておりますので、何かございましたら母屋までお声掛けください」


「——ありがとうございます」

 廊下を遠ざかる宮司を見送った旭は、静かに襖と向き合った。


 ここに、瑞穂がいる。

 ——本当だろうか?


 もし、全くの別人だったら……?

 やはり、全てが夢だったとしたら?


 しっかりしろ、俺。


 乱れ散る思考を引き戻すべく大きく息を吸い込んで、旭は取手にかけた指に力を込めた。


 滑らかに襖が開き、廊下とは対照的に明るい室内に瞳が一瞬戸惑った。

 視線を定めた障子際の文机に、静かに座る背がある。

 懐かしい銀の長い髪がさらりと揺れ、その人は旭を振り向いた。


「————

 瑞穂……」


 随分と青ざめ、窶れた頬。淡い色の唇は一層淡く乾いている。

 けれど、じっと旭を見つめる温かな水の瞳は、間違いなく彼のものだった。


 しばらく旭を見つめた瑞穂は、微かに唇を動かした。


「——……旭」


「……」


「……そなたが、雨宮 旭殿か?」


「…………

 わからないのか?

 瑞穂……何も、思い出せないのか?」


「——済まぬ。

 頭の中にかかった深い靄を、どうにも払えぬのだ」


 そう言いながら旭へ向き直ると、瑞穂は握った拳を旭へと差し出し、おずおずと開いた。

 その掌には、淡い桜色の小さな巻貝があった。


「……そなたと、以前どのように関わったかは分からぬが……

 そなたは、私にとって何よりも大切な存在だった……そうであろう?」


 それ以上堪えきれず、旭は瑞穂へ走り寄ると、すっかり細くなったその肩を力一杯抱きしめた。


「……そうだ。

 あなたにとって、俺は何よりも大切な存在だった。

 だって、俺にとって、あなたはこんなに大事な存在なんだから」


 抱きしめた薄紫の装束の肩に、涙が一気に染み込んでいく。


「…………

 そなたと、私には……涙を流すほどのことが、あったのか」


 瑞穂の髪がくしゃくしゃに乱れるほど強く引き寄せ、旭は泣きじゃくる。


「何にも覚えてないとか、ふざけんなよ。

 ……瑞穂が、俺を思い出せなくても、瑞穂は、俺の一番大切な人だ」


「…………」


「これからは、俺がいる。もう、孤独な思いはさせない。

 だから、安心してくれ。

 ちゃんと食べて、ゆっくり眠って、また昔みたいに笑ってくれ」

 

 瑞穂を抱きしめる旭の背に、瑞穂の手が恐々と触れた。

 微かに震えるその掌の感触が、旭の脳を揺さぶる。


「…………

 これまで、何一つわからぬままで、たまらなく恐ろしかった。

 だが、こうしてそなたが来てくれて、そう言ってくれるのなら……

 私はもう、ひとりではないのだな」


「そうだよ。

 ずっと、そばにいるから、大丈夫だ」


 これでもかと抱きしめた瑞穂に優しく背を摩られながら、旭は激しく咽び泣いた。









 体力の落ちている瑞穂を疲れさせぬよう、旭は母屋で宮司夫妻と夕食を共にした。

「瑞穂様の様子は、いかがでしたか」

「やっぱり、何も思い出せないようでした」

「……そうですか」

 旭の寂しげな微笑に、宮司も辛そうに俯いた。

「瑞穂……以前に比べて、随分痩せて……」


 それ以上言葉を続けられない旭に、宮司の妻は明るく微笑んだ。

「急ぐことはありませんよ。どんなことも、少しずつですから。

 さ、冷めないうちにどんどん食べてね。張り切りすぎて天ぷら山ほど揚げちゃったの」

「ありがとうございます。お料理、どれもめちゃめちゃ美味しいです」

「天ぷらやら肉じゃがやら、地味な田舎料理ばかりでねぇ。でもお口に合って良かったわ」

「初江の肉じゃがは、我が妻ながら逸品です」

 ちょっとドヤ顔をしてから、宮司は旭に向き直った。

「旭さん。今夜は、こちらで宿泊されることも可能とお伝えしましたが、ご都合はいかがですか?」

「はい。お言葉に甘えて、こちらで一泊させていただけたら有り難いです」

「わかりました。食事が済んだらお部屋をご案内しますね」

「あの……」

 手にした箸を置き、躊躇を振り切るように旭は宮司を見た。

「できたら、離れの方で泊まらせていただいても、いいでしょうか? 瑞穂も少しは寂しさが紛れるかもしれないので」

 宮司は大きく頷いて明るい笑みを浮かべた。

「ええ、どちらのお部屋でもお過ごしいただけるように準備してあります。

 瑞穂様も喜ばれるでしょう」




 宮司は、瑞穂の部屋の隣室に旭の寝具を支度してくれた。

 どうしようか迷ったが、旭は意を決して布団一式を抱え上げると、瑞穂の部屋へと運び入れた。


「瑞穂。今日、隣で寝ることにするけど、いい?」

 文机で本を読んでいた瑞穂は、少し驚いた顔をして旭を見上げたが、すぐに笑みを浮かべた。

「もちろんだ。

 暗闇にひとりというのは、恐ろしいほど寂しいものでな」

「良かった。瑞穂の分もついでに敷くから、座っててよ」

「そうか。済まぬ」


 見れば、文机にはたくさんの本が積まれている。

 部屋の壁面に並んだ大きな本棚には、さまざまな分野の本がぎっしりだ。

「瑞穂、ここにある本、全部普通に読めるの?」

「ん? ああ、最初は少し読みにくかったが、宮司が子供向けの本や辞書などを貸してくれたのだ。それらを読むうちに、だんだんとな。——これらの書物のおかげで、余計なもの思いをせずに済んでおる」

 そう言いながら、瑞穂は旭の整えた布団の枕元にも本を積む。

「なかなか寝付けぬゆえ、少なくとも四、五冊は必要だ」

「……は!? マジ!? 読むの速……」

「そなたの驚いた顔は愛らしいな」

 目を丸くした旭を見て、瑞穂はクスッとそんなことを呟く。


「……っ! 

 そんなんじゃ絶対視力落ちるからな!! ほら、今日はもう消灯!!」

 楽しげに小さく笑う瑞穂に、旭は頬を染めながらぶっきらぼうに返した。


「——そなたは、優しいのだな。

 私のような者といてもただ気詰まりであろうに、かように励ましてくれるとは」


 照明を落とした闇で、隣の瑞穂が小さく呟いた。


「……そういうのじゃないよ」


 そういうのじゃない。

 俺達の間の想いは——そういうのじゃなかっただろ。


 説明したところで、虚しいだけだ。

 思い出せない恋のことなど。


 旭は、それきり口を噤んだ。




 どのくらい経っただろう。

 ふと目覚め、枕辺のスマホを見た。深夜2時少し過ぎだ。

 隣からは、深く安らかな寝息が聞こえている。


 いつもなかなか寝付けない、と言っていたのに。

 もしかしたら、旭が傍にいることで、安心したのだろうか。


 旭は身を起こし、手元のスタンドを灯した。瑞穂の静かな寝顔が、仄かな光に浮かび上がる。


 窶れて疲れた様子をしながらも、その姿は昔と変わらず言葉にならない美しさを湛えている。

 陶器のように滑らかな頬や、細やかな銀の睫毛が生え揃った瞼を、旭はじっと見つめた。


 瑞穂がここに来るまで辿ってきた道のりは、誰にも何一つわからないまま、瑞穂の奥底に封じられてしまうのだろうか。

 ——彼の心の奥のどこかに、俺はまだいるのだろうか。

 それとも、もう全ては綺麗に失われてしまったのか。


「……」


 ふと、空気が微かに震えたような気がして、旭ははっと周囲を見回した。


 ……気のせいか?


 自分も、疲れているのだろう。


 布団に身を横たえ、掛け布団を引き上げようとした瞬間、それは今度ははっきりとやってきた。

 大地の奥底を揺るがすような、恐ろしいほどの地鳴りだ。


 カタカタカタ、と部屋が微かな音を立て始めた。


「——これ、やばいやつだ。

 み、瑞穂……瑞穂!!」


 旭は眠る瑞穂の肩を掴み、無我夢中で揺さぶった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る