記憶
「母さん、誰?」
「あ、旭。あのね、ちょっと変な電話で、詐欺とかだと怖いしどうしようか困ってるんだけど……」
母が、受話器を一旦保留にして困惑顔で旭を振り返った。
「なんだかよくわからないんだけど、天の原神社……?の宮司さんだって言ってるの。あなたの名前はっきり出して、そちらにいらっしゃいますか、って」
「天の原……神社?」
聞き覚えのない名前に、旭は首を傾げる。
「とりあえず、電話替わるよ。相手は俺の名前出してるんだろ? 怪しければすぐ切るから」
「うん、じゃお願い」
受話器を取り、旭は警戒を露わにした硬い声を電話の奥へ放つ。
「お電話替わりました。雨宮旭は俺ですが……どのようなご用件でしょうか」
『……ああ、あなたが……』
電話の奥の声は、何か感慨深げにそう答えた。
低く穏やかな、年配の男性の声だ。
『私は、A県にございます天の原神社の宮司、雨宮寛治と申します。
大変突飛なことをお聞きして申し訳ないのですが……あなたは、私どもの神社が祀る雨神について、何かご存知でしょうか?』
「…………」
『何もご存知ない方にこのお話をしても、ただのおかしな悪戯電話か何かとしか思って頂けないでしょうから……』
「——知ってます。
その雨神の名が、須佐 瑞穂で間違いなければ」
『ええ……ええ、そうです! まさにそのお方です!!』
電話の奥の相手は、旭の答えにほっとしたような声を上げると、漸く禁を解かれたかのように話し出した。
『昨年の秋です。十月上旬のある夜に、私の夢枕にひとりの老婆が立ちました。
彼女は「刻の守」と名乗り、あるお告げを
「——人となって……降りる?」
『はい。
夢のお告げを受けてはっと目覚め、その夜はそこからよく眠れず、翌朝早朝に神社の本殿へ赴きました。すると、夜間は締め切ってあるはずの本堂の祭壇の前に、例えようもなく美しい長髪の男性が横たわっておられて……』
「——……」
宮司は、そこからも信じられないような話を次々と口にした。
確かに、事情を何も知らない者が聞いたら、狂人の妄想か何かとしか思えないだろう内容だった。
受話器を固く握りしめ、旭は一言も逃すまいとするように宮司の言葉一つ一つに聞き入った。
宮司の話が一区切りつくと同時に、旭はふうっと大きな息をひとつついた。
『——驚かれますよね、いきなりこんな奇妙な話を聞かされては……信じていただけますか?』
「……ええ。はい。もちろんです」
そう答える自分の声が、抑えようもなく震える。
『有難うございます。そう言って頂けて、安心いたしました。
つきましては、できるだけ近いうちに、一度我が神社へお越しいただくことはできますでしょうか? なにぶん山深い場所にありますので、都内からですと結構な時間がかかりますが……最寄駅までお越しいただければ、そこから先は私どもがお迎えに上がります』
「わかりました。ならばすぐにでも……えっと、今度の土曜に、お伺いしてもいいですか?」
『それは有難うございます! では、どうぞよろしくお願い申し上げます。私どもの最寄駅は——』
「はい。……はい。わかりました。こちらこそ、よろしくお願いします」
受話器を置く掌が、びっしょりと汗をかいていた。
膝が、ガクガクと小刻みに震える。
「旭、電話、随分長かったけど……どうだった? 詐欺とか怪しい話じゃなかった?」
キッチンのテーブルに置いたままのコーヒーをとりに戻った旭に、夕食の後片付けの手を止めて母が声をかけた。
「うん。
——母さん。今度の土曜、ちょっと出かけてくる」
何かを強く思い詰めたような旭の表情に、母は改めて息子を見つめた。
「……えっと、天の原神社……だっけ? A県って、結構遠いけど」
旭は真っ直ぐに顔を上げ、母を見つめた。
「うん。——すごく大事なことなんだ」
母は、少しの間何かを考えるようにしてから、深く頷いた。
「行ってらっしゃい。
旭、最近ずっと、何か考え込んでる、っていうか、抱えてるというか……そんな様子だったよね。
どうしたんだろうって、実は、少し心配だったんだ」
「……」
「言いにくいことなら、無理には聞かないから。
——ちゃんと、向き合っておいで」
「……うん。
ありがとう、母さん」
母の気遣いの温もりが、旭を包む。
できる限りの笑みで母に応え、旭は少し冷めたマグカップを手にとった。
*
その週の土曜。
気もそぞろに早めの昼食を済ませた旭は、電話で教えられた駅へ向けて家を出た。約三時間の旅だ。そこからは迎えの車で更に山へ入っていくという。
電車の振動に揺られながら、旭はざわざわと乱れる思考に身を任せる。
宮司の話では、本堂で発見された瑞穂は、二週間ほど意識のないまま眠り続けていたという。
ぐったりと瞼を開けない瑞穂は、神社に隣接した宮司の家の離れに運び込まれた。夢のお告げと、お告げ通りに突然現れた美しい男。どうにも摩訶不思議な話だが、その地区に伝わる民話の中の雨神の姿と瑞穂の様子がぴたりと重なるため、瑞穂を受け入れた者たちは皆、夢のお告げを疑う気にはなれなかったそうだ。
幸いなことに、宮司の息子の嫁は街の診療所の看護師をしており、日々献身的に瑞穂の看護に当たってくれた。勤め先の医師にも相談したところ、老医師は快く往診を引き受けてくれたという。
肌寒い十月末の朝、瑞穂は漸く意識を取り戻した。
しかし、目覚めた彼の脳からは、全ての記憶が消失していた。
周囲の者たちが、あの夜の刻の守のお告げの話を聞かせても、以前は雨神の地位にいたであろう話をしても——これまでの自身について、何も思い出せない様子だという。
『それが、ここにきて、とうとう何かを微かに思い出されたらしいのです』
電話の奥の宮司の明るい声が耳に戻る。
瑞穂は、今から半月ほど前の夕刻、おぼつかない足取りで突然離れから母屋へ走り込んでくると、宮司の肩をぐっと掴んでうわ言のように呟いた。
『——……旭……
雨宮 旭という名を、ご存知ないか。確か、何よりも大切な名だったのだ』と。
その青白い手には、小さな美しい巻貝と、それを包んでいた白い和紙が握られていた。
瑞穂が発見された際、その懐に入っていた小さな包みを宮司が預かったが、畏怖の念でその中身の確認などできないまま、離れの文机の引き出しに入れておいたのだそうだ。引き出しからその包みを見つけた瑞穂は、巻貝を見て微かな記憶を取り戻したのだろう。
宮司は、瑞穂が呟いた名を手がかりにあらゆる情報を手繰った。そして、数十年前に天の原神社へ多額の奉納をした、「雨宮
雨宮 輝。雨宮 旭。二つの名の雰囲気はよく似ている。帳簿に記された連絡先から、祈る思いで問い合わせた。
すると、電話の奥で、年配の落ち着いた声音の男性が応えた。
『雨宮輝は既に他界しておりますが……私は、輝の息子の陽一と申します。
雨宮旭は、私の孫ですよ』と。
——雨宮陽一は、まさしく旭の父方の祖父だ。
特段の事情がある旨を話すと、陽一は旭の自宅の連絡先を宮司に伝えたという。
車窓に額をつけ、窓の外の景色を見つめながら、旭は考え続ける。
神の世で、何があったのかはわからないが——瑞穂は、かつて旭が渡したあの小さな巻貝を懐に入れて、神の世から人の世へと降りてきたのだ。
恐らく、容易には実行できない何らかの方法で。
そして、夢枕に立った刻の守は、瑞穂は「神から人となって降りる」と——そう言った。
瑞穂は、もう、神じゃないんだ。
——俺に会うために、神の力も寿命も全て手放し、この世へ?
天からここへ降りてくるその間に、一体何があったのか?
青白く痩せ、禰宜の装束を寂しげに纏った瑞穂の姿が瞼に浮かぶ。
心臓が、強烈な痛みを伴って早鐘を打つ。
「——瑞穂……」
この一秒一秒があまりにもどかしく、旭は膝にギリギリと拳を握りしめた。
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