彷徨う
蒼鷺と蝮が去り、自分の部屋に残された旭は、はっと我に返ったように部屋の隅の荷物を乱暴に漁った。
リュックの奥底に詰め込まれていたスマホを掴み出し、訳もなく震える手でコードに繋ぎ電源を操作する。
スマホは、何事もなかったようにすんなりと動き出した。
画面の表示は、九月九日、土曜日。
ということは——先週から、学校の二学期が始まったのだ。
部屋の床に茫然と膝をつき、天井を見つめる。
梅雨の始まったあの日。美しい雨神が突然このベランダへ突然現れて、何がなんだか分からぬままにこの世界を離れて。
それから、ほぼ丸三か月。
その三か月間の、一秒一秒の濃さ、重さ、鮮やかさ。
あまりにも強烈な記憶が、脳から溢れるように思い出される。
徐に立ち上がり、机の引き出しを開けた。
ふと、美しい小箱が目に入る。
神の世界へ発つ前日、妹のほのかがくれた修学旅行土産の手鏡だ。
箱の中の丸い鏡を手に取り、自分の顔を映す。
そこには、神の世へ発つ前と何一つ変わらない自分が映っていた。
——自分は本当に、雨神と共に美しい龍に乗り、神の世界で三か月を過ごしてきたのだろうか?
何もかもが、自分の幻覚か夢か——そんなものだったんじゃないのか?
そうかもしれない。
そんなはずはない。
激しく混乱する思考で、再びリュックに走り寄り、中を乱暴に掘り返す。
もどかしくて、とうとうリュックを逆さにして中身を全部床にぶちまけた。
ぱたりと、美しい扇が足元に落ちた。
美しい
夏の初めの夕餉の情景が、はっきりと旭の記憶に蘇る。
『そなたに使ってもらえたら、嬉しい』
銀の長い髪。艶のある低い声。
自分を包むように見つめた、温かな水の色の眼差し。
扇を開き、静かに仰ぐ。
涼やかな風も、暖かな風も、そこからは生まれなかった。
けれど、その風は紛れもなく、あの甘い水の匂いがした。
「——……」
唐突に、涙が溢れ出す。
ボロボロと溢れて止めようがない。
この先、この世界で、どう生きればいい?
そう問いかけて、ふっと自嘲が漏れる。
この苦しみを選んだのは、自分だ。
瑞穂はきっと、この苦しみを見抜いていたのだろう。記憶を消す術を必ず施すよう蝮に命じたのは、そのためだ。
そう。自分は、この苦痛を選んだ。
大切な人を全て忘れ去った空っぽな脳みそで生きるなど、どれほど楽だとしても無意味だ。
この苦痛に押し潰されてしまうならば、それでもいい。
瑞穂の記憶が、この心臓を止めるなら——それは、俺にとっての幸せだ。
ぼたぼたと落ち続ける涙を、手の甲で拭う。
あの懐かしい眼差しと、温もりと、匂いを、旭は胸一杯に抱きしめた。
「……自業自得だっての。泣いてても仕方ねーじゃんか」
テーブルのティッシュをやたらに引き出し、涙でびしょ濡れの頬をぐしぐしと拭きながら立ち上がる。
蒼鷺が言い残した通り、部屋のドアに貼ってあった結界の札を静かに剥がした。
それと同時に、ドアがバンと開いた。
「にーちゃん、夕ご飯できたよっ!
もー。土曜だからって一日中寝てるのやめなよ!」
「……ほのか……」
もう二度と会えないと思っていた妹の顔を、旭は食い入るように見つめた。
「は? ど、どうしたのよ? って、なんかにーちゃん目がめっちゃ赤いじゃん……もしかして、泣いてんの!? 部屋もこんなとっちらかして……あー、さてはまたフラれた?」
いつも通りの無神経な言葉が、今の旭にはたまらなく懐かしく、愛おしい。思わず笑みが漏れた。
「……ふは」
「……え。ここで笑うって、なに?」
「いや。ほのかって結構可愛かったんだなあと思って」
そんな呟きに、ほのかは一瞬呆気にとられ、やがてざあっと青ざめた。
「はあ!? ちょ、ほんとキモいんだけど!? まさか失恋のショックでとうとうおかしくなっちゃったとか……? 頼むからシスコンになりましたとか言わないでよね!?」
「はは、言うかよ、ばーか!」
部屋の外から流れ込んできた味噌汁の匂いに、旭の胸はようやくその香りを大きく吸い込んだ。
学校が始まり、以前と変わらぬ日常が再び始まった。
旭は、以前と変わらぬ顔でクラスメイトと笑い合い、授業を受け、家族と食事をして、眠った。
そうして、以前と変わらぬ自分に戻るつもりだった。戻らねばならなかった。
けれど、心の奥まで元の通りになるなど、到底無理だ。
目に映るものも、耳に届くものも、すべてはモノクロで、なんの匂いも味もなかった。呼吸をすることさえ虚しく思えた。
自分の生きる場所だと疑わなかったこの世界には、自分の居場所はどこにもない気がした。
あれほどに固く結び合った相手は、この世界にはいない。
彼の隣のあの場所以外に、自分が存在したい場所など、あるはずがなかった。
苦痛を逃れるために、遅れた分の勉強をひたすらこなした。
こちらの世界へ戻って以降、九月の間は凄まじい台風がいくつも発生し、恐ろしいほどの雨と風が人の世を襲った。
無我夢中で走らせていた赤ペンを置き、旭は窓を激しく叩く雨粒をじっと見つめた。
これらは皆、瑞穂が起こしている嵐なのだろうか。それとも、瑞穂を力尽くで伴侶にした星の守が、瑞穂に強要している嵐なのだろうか?
台風が過ぎ、厚い雲間から優しい日射しが窓に差し込むたびに、目の奥が無意味に熱く突き上げた。
瑞穂が、自分に投げかけている光のような気がして、ならなかった。
しかし、台風の最盛期も過ぎた十月上旬、秋空がにわかに暗雲に覆われ、凄まじい雷鳴が天に轟き渡った日があった。
その日を境にして、空に瑞穂の気配を感じることはなくなった。
灰色の雲から落ちる雨は、ただ静かに降り頻り、旭の心に何かを語りかけることはなかった。
——瑞穂は、自分をもう忘れてしまったのだろうか?
そうなのだろう。
だって、雨の神様だ。人の世へ戻ったちっぽけな人間のことなど、いつまでも覚えているわけがない。
神様の寿命からしたら、共に過ごした時間など、ほんの数秒程度でしかなかったのだ。
友達と別れた学校帰り、瑞穂の気配の消えた秋の空を仰いだ。
雲ひとつない、美しい夕暮れの空だ。
勝手に、涙が溢れた。
本当に、なにもかもなくなってしまった気がした。
*
笑い方を忘れた顔に笑みを貼り付け、味のない食事を食べ、ロボットのように日々のやるべきことをこなして、時間は過ぎていった。
秋が過ぎ、冬が訪れたが、その寒ささえ旭の意識に入り込んではこなかった。
成績が無駄に上がり、冷めた空気を背負うようになった旭はなぜか女子たちから幾度も告白を受けたが、塞いだ気持ちを切り替えたくて付き合い始めても、旭の本心は彼女たちを全く受け付けなかった。
そして、彼女たちと何度デートをしても、もう雨は一粒も降らなかった。
年の明けた、一月の終わり。
ひと月も続かなかった相手の女子に別れの言葉を告げた旭は、冬晴れの夕空を見上げた。
朱から濃紺へ変わっていく空に、小さな星が一つ輝いている。
「——なあ、瑞穂」
気づけば、唇が勝手に動いた。
「瑞穂。
一言でいい。何か、言ってくれ。
あの頃みたいに、雨を降らせてくれ——頼む」
穏やかな夕暮れへ向けた呟きは、やがて抑えようもない叫びに変わった。
しかし、その声も、頬を伝う涙も、ただしんと冷たい空気に冷やされていくだけだった。
寒さが和らぎ始めた、春の初めの夜。
自室を出てキッチンへコーヒーを入れに来た旭の耳に、リビングから母の声がした。
電話で誰かと話しているようだ。
「——は?
はい、雨宮旭は、確かに息子ですが……は?」
普段と違う訝しげな母の声に、旭は耳をそばだてた。
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