願い

 奥の部屋で濃紺の羽織袴から純白の装束へと着替えた瑞穂は、居間へ戻ると壁際の文机へ歩み寄り、引き出しから小さな白い包みを取り出した。

 両の掌で包み込むようにしながら、それを刻の守へ差し出す。


「刻の守様。お願いがございます。

 私の息が絶えた後、これを私のふところに収めてくださいませぬか」


 白い和紙を折り畳んだ小さな包みを受け取り、刻の守が問いかける。

「これは……」

「中にあるのは、淡い桜色をした巻貝です。

 以前、旭が私にくれたものです。彼が幼い頃に海辺で拾い、空にいる雨の神様に渡したいと、ずっとしまってあったものだそうです」 


「……」


「一緒に持って参りたいのですが、今懐へ収めれば、粉々に砕け散ってしまいますゆえ」


 瑞穂の穏やかな眼差しをじっと見つめた刻の守は、静かに頷いた。

「——わかった。

 必ずそなたの願い通りにいたす」

「かたじけなく存じます」

 瑞穂は、ほっとしたように微笑むと、懐より美しい白木の小箱を取り出した。それをすいと刻の守へ押し出し、紺の組紐の結び目を解いて蓋を開けた。中には、深い緑色の勾玉の首飾りが艶やかに輝いている。

「みつき殿に、何卒よろしく頼むとお伝えくださいませ。

 これは、雨神の証となる、翡翠の首飾りにございます。新たな雨神となる彼女——我が妹へ、お渡しください」


 とうとう堪え切なくなったように、刻の守の声が苦しげに詰まった。

「案ずるな。この城と雨神の任は、何があっても恙無つつがなく切り回す。約束する」

「刻の守様。

 此度のあついご配慮、心より御礼申し上げます」

 深く伏せた額を真っ直ぐに上げると、瑞穂は背後に控えた鴉へ静かに告げた。

「鴉。これよりこの天守の上へ、雷をぶ。

 天の雷鳴が収まるまでの間、誰ひとりこの天守へ近づけぬよう、頼むぞ。よいな」

「——承知仕りました。すぐさま、段取りを致します」

 何かを振り切るように、鴉はがばりと額を伏せて礼を終えると、そのまま瑞穂の居室を飛び出した。


「しからば、刻の守さま。

 雷が去るまでは、くれぐれも欄干にお近づきになりませぬよう」


「……わかった」

 さらりと爽やかに向けられた瑞穂の笑みを、刻の守は歪む口元を必死に笑顔にして受け止めた。




 欄干へ立った瑞穂は、左手を高く天へと掲げた。

 静かだった秋風が、俄かに荒々しく強まり、木々の梢をざわざわと揺らし始めた。

 淡い鰯雲を追い払うように、重く湿った雲が見る間に頭上に湧き上がり、空を覆ってゆく。波打つ暗雲は、やがて瑞穂の差し上げた指を中心にするかのように太い渦を巻き始めた。

 銀の髪を強い風に乱されながら、瑞穂はその指先で静かに印を結ぶ。

 厚い雲の奥から低い雷鳴が漏れ、それは次第に空を揺さぶる轟音へと変わっていく。そして、雲間を走る無数の稲妻が、瑞穂の指し示す天の一箇所へ凄まじい勢いで集まり始めた。

 稲妻は激しく衝突し合いながら新たな稲妻を吸収し、次第に大きく一つにまとまっていく。やがて、それは天空に巨大な光の玉を作り、細かな光の筋を放ちながら瑞穂の指の上空でぴたりと静止した。


 差し上げていた指をゆっくりと開き、瑞穂はその掌を眩しい光の球へと真っ直ぐに向けた。

 小さな呪言を唱えると、光の球はじりじりと雨神の掌へ吸い寄せられるように動き始めた。


 巨大な光をぐっと見据え、球へ向けて掌を突き上げたたまま、両脚で地面を強く踏み締める姿勢をとった瑞穂は、低く鋭い呪言を放った。

「————収」

 その声と同時に、球はかせを解かれたかのように大気を駆け、瑞穂を目掛けて猛烈な勢いで進んでくる。

 渾身の力で突き出された瑞穂の掌が、球を掴むかのような形を作る。まるでその形に従うかのように、光の塊は瑞穂の目の前で瞬時に小さな球体へと収縮した。

 巨大なエネルギーを一層強く圧縮された光の球は、目を射るような光を放ちながら瑞穂の掌へと収まった。

 高く突き上げた掌に球体を握り込んだ瑞穂は、ゆっくりとその拳を自らに引き寄せる。

 手の中の威力を僅かも逃すまいとするように拳を強く胸へ押し当て、左腕を全身で抱き込みながらひざまずいた瑞穂は、最後の呪言を呟いた。

「解」


 収縮していた力が、その瞬間、外へ向けて解放される。

 球体の破裂とともに放たれる凄まじい光と轟音が、薄闇に沈む空間を一瞬にして呑み込んでいった。









 冥界の使者の小舟は、雷鳴が止んで程なく雲間より現れた。


 雷に阻まれ、天守に近づくことのできなかったみつきが、驚くほど美しいままの瑞穂の半身を起こして抱きかかえ、刻の守に寄り添って嗚咽を漏らす。

 欄干へ舟を寄せた使者は、音もなく床に降り立つと事もなげに瑞穂の身体をみつきから引き離し、すいと抱き上げた。


「——その者を、濁流へ投げ入れてはならぬ」

 何の言葉もないまま舟へ乗り込もうとする使者を、刻の守の低い声が引き留めた。


「……」


「そなたに、折り入って頼みがある。

 その愚か者を、とある場所まで運んではもらえぬだろうか。

 ここに、私の術を込めた札がある。これをそなたの舟のへ結び、艪が導く場所でその者を降ろしてやってほしいのじゃ」


「——左様な事は、相成りませぬ」

 おもむろに振り向くと、使者は抑揚のない声で返事を返した。


「いかに貴方様が尊い神であっても、冥界の領域への干渉は許されませぬ。ましてや罪人の願いを聞くなど、以ての外」


「お願い申し上げます、御使者様。

 どうか、私達の願いをお聞き届けくださいませ」

 濡れそぼった頬を手の甲で拭い、みつきが真っ直ぐに使者を見上げた。


「私は、この城の新しき主にございます。

 兄は——瑞穂様は、何一つ罪を犯してなどおりませぬ。

 人の世におられるただひとりのお方を深く愛し、その方と寄り添いたいというただその一心で、神の力も寿命も全て手放し闇へ堕ちる道を選ばれた……そのことの、一体どこが罪だというのですか!?」

 制していた感情がとうとう堪え切れなくなったかのように、みつきは新たな涙を零しながら激しい声を放った。


 ふっと、みつきの隣に座る刻の守の唇から小さな笑いが漏れた。

「のう、救いようもない愚か者であろう?

 その愚かさに免じて、せめて下界の闇で彼らを添わせてやりたいのだ。

 かほどに些細な願い事じゃ。冥界の定めがいかに厳しいと言えど、聞き入れても良いと思うが?」


「————」


 口をつぐんだまま動かない使者へ、刻の守は小さく囁くように付け加えた。


「我が意向を引き受けるならば、百年寿命を延ばす丸薬をそなたに進ぜよう。——どうじゃ?」


 菅笠すげがさを深く被ったその奥の目が、鋭く刻の守を見据える。

「かの刻の守様が、かような取引を持ち出されるとは。

 善良な顔をして、油断のならぬお方だ」

 刻の守は、その言葉に柔らかな微笑を浮かべた。

「善良? ほほ、肝心な時に何もできぬならば、善良など愚鈍に等しかろう?  

 さ、この薬の包みと引き換えじゃ」

「そのようなものは要りませぬ」

 懐から丸薬を取り出そうとする刻の守の言葉を、使者は無表情に遮った。


「冥界の遣いが寿命など乞うて何になりましょう。

 ——貴方様のその札を、お渡しなさい。もうあまり時間がない」


「…………」


 虚を突かれたような刻の守の手から、すうと札が抜き取られ、宙に浮いた。

 そのまま札は使者の舟の艪へ吸い寄せられるように移動し、小舟からするすると伸びた細い綱がそれをくるりと艪に結びつけた。


「此度の件は、他言無用にございます」


「——ご温情、かたじけない。

 心より、感謝申す」

「有難う存じます、御使者様……!」


 瑞穂を乗せて音もなく欄干を離れていく小舟に、刻の守とみつきはいつまでも深く額を伏せた。




「————先程の雷鳴は、一体何事ぞ!? 

 今日はこれより重要な儀が控えておるというに! あのような凄まじい雷を鳴らすなど、瑞穂にさような振る舞いを許した覚えはない!」

 小舟の去った夕闇の空を茫然と眺めていた二人の耳に、ドカドカと廊下を歩く音と荒々しい濁声が近づいてきた。

「星の守様、ひとまず別室でお待ちを……!」

「其の方、わしを誰だと思うておる! 控えよ!!」

 鴉の静止を無視し、バンと乱暴に襖を開け放った星の守が、この上なく不機嫌な顔で瑞穂の居室へ踏み込んだ。

「——なんじゃ、ばば様、なぜここにおる!?

 瑞穂はどこじゃ、今すぐここへ呼べ!!」


「遅かったのう」

 我が孫の振る舞いを一瞥し、刻の守は微かに口元を引き上げた。




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